〔20200706〕第12回 人間と言語⑤ 自閉スペクトラム症とことば(方言と共通語)


〔20200706〕第12回 人間と言語⑤ 自閉スペクトラム症とことば(方言と共通語)

《期末レポートのお知らせ》
課題 
 第2〜14回の講義のうち1回を選び、そのなかで、①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、②それについての従来の自分の考え、③自分にとっての「新しさ」の理由、を書いて下さい。(とくに字数の指定はありませんが、普段の授業コメントより一歩深めて書いてください)。

送付先のメールアドレス
bukkyo.bukkyo2017@gmail.com

締切、送信上の留意点
 送信期間は7/27月〜7/29水。
 「件名」には必ず、学番―氏名―2020期末レポート を明記してください。
 レポートは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。

《お知らせ》(再録)
◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、

https://kyouikugenron2020.blogspot.com/

に掲載します。授業の折には、このブログにタブレットやスマホでアクセスするか、それよりも望ましいことですが、事前にパソコンから印刷してください。

◯授業終了後に皆さんのコメントをメールで送付してください。
 送付先のメールアドレス、締切、送信上の留意点は以下の通りです。

bukkyo.bukkyo2017@gmail.com

 編集の都合上、水曜日の18時までに送信してください。
 
 「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。
 
 また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。

 なお内容的には、①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、②それについての従来の自分の考え、③自分にとっての「新しさ」の理由、を含んでいるのが望ましいと考えられます。
 あるいは、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。

《みちくさ》
365日の紙飛行機

《第11回講義へのコメントより》

【子どもがことばを吸収する力】
 今回の授業では、子どもがことばを習得するには子ども自身が周囲の環境から取り出すことが必要であるということが分かった。その「子ども自身が」という部分において、造語のようなものが生まれるのだろうと感じた。「子ども自身が」と聞くと、周囲の大人が子どもにたくさん話しかけるといったかかわりは必要ないのかと感じるが、それは間違いでやはりことばの習得において周囲のかかわりは必要であり、子どもの周りに豊かなことばが存在していることが重要だと感じた。それを身につけるか身につけないかが子ども次第ということだと感じた。また、ことばの段階の各時期の長さは母親のプログラムによって変化するものではないと知り、ことばの分野においても子ども一人ひとり発達の早さは異なるため、無理に話すことを強要せず子ども一人ひとりに寄り添いながら見守る・かかわることが必要だと感じた。

 今回の講義で私は、ことばの習得について学んだ。本講義を受講するまで私は、ことばは母親など身近な他者の存在に完全に頼っており、子どもは自分のプログラムでことばを習得しているとは考えておらず、言葉は発達の一部に過ぎないと考えていた。
 しかし、ヴィゴツキーが述べた3歳未満児の「自然発生的」な教育、3〜7歳の「自然発生的−反応的」な教育の時期において、ことばの独特な姿が確認でき、「子ども自身が周囲の環境から取り出すこと」が話しことばの習得にとっては規定的であり、それゆえに、「子どもが通過する諸段階の順次性、子どもがとどまる各時期の長さ」は母親のプログラムによって変るものではない。その根本にあるものは「自然的なもの」であり、「自然的なものと文化・歴史的なものとのせめぎ合い」であると学び、周囲の豊かな言葉も大切であるが、せめぎ合いの大切さを学んだ。また、ことばは発達の一部でもあるが、発達において非常に重要な中心の様な役割を果たしていることを学んだ。

【トマセロとチョムスキー】
 ①ヒトが言語を使用することが出来ることについての考え方はトマセロとチョムスキーで正反対に対立している。
トマセロの言語習得論は対人的な考えでありチンパンジーとの比較が原点にある。一方でチョムスキーの生成文法理論は生得的要素が重要だと述べている。生まれ持ってのものか生まれてからのものかという考えの違い。
 ②私の考えとしてはどちらかというとトマセロの考えに似ている部分があった。生まれてからの環境や言語によって支配されるのではないかと思っていたが、自閉症の子どもの例を知り驚いた。生まれもっての言語の知識が少なからず関わっているのことも考えるべきだと思った。
 ③生得的に考えると言っても子どもが生まれ持ってとは私には考えにくいと思った。トマセロの対人関係の中で子どもは言語を習得していくという考え方には納得できるが1部の子どもには値しない点をみると子どもの言語習得論は奥が深いと思った。

 今までいろいろな学者の説や理論をみてきたが、矛盾やこれから解かなければならない課題があった。いろいろな学者の理論がいくつもありすぎて、どれが正しいのかわからなかった。しかし今日のまとめで、「人間の中には、言語の習得や破壊防止のためにいくつも機能がある」とあり、言語について考えるだけでこんなにいくつもの理論があることが納得できた。どれが正しいのかという視点からの考え方はなくなった。
 また、たしかに視覚障害、聴覚障害の人は視覚や聴覚の部分で健常者に比べ欠落しているが、頭の中で点字を言葉に変換することや、口の動きから言っていることを読む力がある。これは私には到底できないことである。音に出して伝えられなくてもその補償として、様々な機能が働く人間の構造はすごく面白いと感じた。

 トマセロとチョムスキーとの違いの部分で、記号か文法かという両者の相違の捉え方について、トマセロの考え方でしか今まで考えることができていなかった。記号の機能があればそこから文法が導き出される、この考え方に納得して終わっていた自分がいた。しかし、他の動物と切り離して記号と文法を捉えると、自然的な平面を考慮に入れて考えてみたa.b.cの考え方は自分にとって新しかった。確かに今まで学習してきたチンパンジーの半記号やシジュウカラの文法を構成、理解する能力、人間の子どもの初語をふまえると一概に記号か文法かとは考えることができないと考えた。
 また、これらから、一つの考え方に対して、さまざまな知識を得ているのだから繋げて疑問を持つことが大切であると考えた。

【トマセロ理論と自閉症】
 トマセロの言語習得論は共同注意フレームが自然的なものから文化、歴史的なものへの転移を促し、相手の意図理解、役割交替を伴う模倣が派生する。その上で、統語論や文法事項、比喩的表現を大人との言語的交わりの中で発見するということを述べている。しかし、トマセロ理論は対人的なものであり、モノに向き合うという側面はあまり考察されておらず、自閉症の子どもの言語習得について十分な説明ができていないことが分かった。またトマセロの理論は原理的には英語話者に密着した理論づけとなり、多言語的な孤立語、膠着語、屈折語を含んだアプローチが必要であるということが分かった。今回の授業では、トマセロ理論は具体的な実験や例えを通したものが少なかったので理解するのが難しく感じた。 しかし、トマセロ理論の弱さや欠落が自閉症などの事例を他の理論からより理解できるのではないかと思った。

①新たに発見した事実とその考え方
 トマセロの言語習得論の基礎は、「共同注意フレーム」「相手の意図理解」「役割交替を伴う模倣」であるということだ。「共同注意フレーム」を言語習得論の出発点として考え、そこから大人の表情や身振りをみて「相手の意図理解」が生まれ、追う追われるなどのような「役割交替を伴う模倣」が成り立つ考え方を新たに学び、発見した。
②それについての従来の自分の考え
 子どもは自分に向けられた大人のコミュニケーションをみる「相手の意図理解」が生まれる流れまでは理解していたが、子どもが自分から「待て・待て・待て・・・」と言って追いかけさせる「役割交替を伴う模倣」が成り立つ事を知らなかった。
③自分にとって新しさの理由
 子どもが大人と「役割交替を伴う模倣」が成り立ち、これが会話のやり取りに先行するものであるという考えが私にとって新しい考え方であった。このように子どもたちは「相手の意図理解」で見たことを「役割交替を伴う模倣」で実践して、「言語的パターン」を見つけていくことを学んだ。
 しかし、対人関係を大切とするトマセロの言語習得論に基づくと、自閉症の子どもは言語習得が出来なくなるとなるが、実際は共通語を話すという傾向がある。どこから言葉を聞いて理解し、言語を理解しているのか非常に気になったので、次回の課題でもっと学んでいきたい。私の予想では、絵本やテレビなどでは標準語が使われていることが多いので、人からの言葉の使い方を習得するのではなく、モノからかあるいは人から間接的に習得しているのではないかと考えた。
 〔自閉症の子どもとことばとの関係はきわめて複雑です。というよりは、健常な子どもとことばとの関係も、思いのほか、複雑であるのです。〕

【統語論の習得をめぐって】
 前回と今回の授業で、英語を使っている子どもがgoの過去形をwentではなくgoedと言い出したという例がある。また子どもは統語論を概ね2歳代に習得する。ということを理解した。
 第11回の授業では、トマセロの言語パターンの発見は文化・歴史的な平面での発見であったが、多言語において考えてみると、いずれも2歳代で習得しているということは自然的な平面も関与していると考えるべきだということを新しく知った。
 これを知って、私は確かに2歳代で、統語論を習得しているのは文化・歴史的な平面での習得もあると思うが、シジュウカラに文を構成し理解する力があるように、自然的な平面での習得も関与していると思った。だが、やはり2歳代で統語論を習得している子どもはすごい勢いで周りのことばを吸収しており、天才だと思った。

 今回の授業では、音による意味識別機能の理解、規則性・法則性への愛着、3項関係の成立の3つすべてが統語論(シンタックス)の習得に関連しているということが分かった。トマセロの考え方で行くと、統語論は文化・歴史的な面に存在していると今までは考えていたけれど、どの言語においても2歳代に統語論が発達するという点から、自然的な面でも関連していると考えるべきであるということが分かった。このことは、自閉症児が規則性・法則性への愛着によってきわめて不十分な・方言による・言語的コミュニケーションから、共通語の形式を導き出していることに深く繋がっていると考える。このことを次回の授業で詳しく理解していきたい思った。

 今回の授業を通して、日本語、ロシア語、英語の統語論の習得の時期はおおむね2歳代であり、どの国でも同じくらいだとされていることが分かった。語の格変化があったり、助詞があったり、語順が重要であったりと、言語によって統語論(シンタックス)上の要点が異なるため、厳密には言えないが、おおよそ2歳代に、格変化(ロシア語)、格助詞(日本語)、語順(英語)というシンタックス上の要点が姿を現すとされている。日本語の格助詞は確かではないとされているが、シンタックスという点でロシア語、英語が同じような時期に発達しているため、おそらく日本語の場合もそうではないかとされている。
 私は今まで、この例に挙げられた3か国語の統語論の習得の時期がだいたい同じくらいであることを知らなかった。これらの習得の時期に関しても、国によって異なるのではなく、同じ人間の子どもとしての共通性が感じられ、私にとって新しい発見となった。

【言語と人間の生存】
 今回の授業では、今までトマセロやチョムスキー、ヴィゴツキーなどの、いろいろな理論を学習してきたが、それらを「言語(習得)」に焦点をあてて、比較してみると、捉え方の違う点があったり、似ている点があったりなど、全ての理論が同じことを意味しているわけではないが、どの理論や考え方から、まとめで書かれていたように、「言語とは人間の種としても個人としても生存に直接に関わるのであって、種および個人としての、自己保存の大きな支柱にあること」が根本にあるもいうことを、新しく学んだ。それは、言語とは人間が唯一、他の動物との違いとして挙げられるもので、その言語という存在が、人間という種の独立を表しているということである。だからこそ、人間はどんなに進化しても、「言語」を消滅させてしまうことはないし、むしろ「言語」をどんどん発達させていると言えると私は思う。「人間」という種の独立性であったり、種の確立を維持し続けるには、「言語」という存在が必要不可欠であるのではないかとも考えた。私は授業を受けるまで、人間にとって、言語がそれほど大きなもので、「人間であるため」に欠かせないものであるという認識はこれっぽっちもなかった。だから、授業を重ねていく度に、普段何気なく使っている「言語」が、実は言語の習得や破壊を繰り返して成り立ったものだということや、またその言語が消滅しないために、破壊防止の装置などが無意識に使われているということが分かり、驚きの連続であった。私にはそのような考えや認識が無かったために、新しく感じたからだ。「言語」は人間が生存し続けるためにできたものであり、それは意識的に創られたものではなく、人は生まれながらにして、生存するための力として、「言語」に対する能力が備わっているのであると分かった。

【自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」について】
 子どもの初期の言葉による、自然的なものと文化・歴史的なもののせめぎ合いと方言のことから、自分の乳幼児期のことを考えた。私は標準語(東京)を話す母親と関西弁(大阪)を話す父親と兄の下、京都で生まれ育ったのだが、2歳なるかならないかくらいまで単語でしか話さなかったそうで、両親的には母親の言葉を使うか父親や兄、周囲の人たちが話している言葉を使うかを選択していたようで、ある日突然、流暢にベラベラと話しだしたと言われた。自分が文で話さないだけで、言われている事を理解していた為、発達の問題の心配はしなく、病院等でも特に問題視されなかったとも言われた。このエピソードから私は、「せめぎ合い」は喃語と初語のあいだの沈黙期の存在、初語における意味の般化と文化、初語における単語と1語文、2歳代における統語論や文法の無意識的習得、(3歳代における独り言の発生とその後の内言)、文法にあまりにも忠実な「造語」の存在など、子どもの各時期の独特なことばに明瞭な姿だけでなく、「方言・言語(日本語か外国語)」といった、これから使用していく言葉の選択も、自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」として合理的に捉えることができるのではないかと考えた。
 〔方言と共通語の関係については極めて複雑だと感じます。第12回講義を参照してください。〕


《第12回講義メモ》
自閉症とことば(方言と共通語)

はじめに

 今回の講義の目的は、自閉症のある子どものことばの不思議な特質――方言よりも共通語を話す傾向にあること――がなぜ生じるのかを明らかにすることである。

 (a)その目的のために、まず自閉症(正式の診断名は「自閉スペクトラム症」)そのものを理解する必要がある。自閉症の説明として少なくとも理解しておくべきものとしては、①スペクトラム(連続体)とサブカテゴリーとの区別(違い)と連関(つながり)、②「心の理論」未成熟説、③「中枢性統合理論」脆弱説がある。
 ①からは診断と療育(保育・教育を含む)とにとって重要な意義がある観点を導き出すことができるし、②は自閉症のもっとも主要な障害(対人的な社会的コミュニケーションの障害)に焦点を当てて自閉症を理解することにつながる。しかしながら、②によって説明できないような自閉症の現象があり、そのような現象を理解するために、③が優れた説明を提供することもある。

 (b)自閉症のある子どものことばが帯びる1つの特質は、方言よりも共通語の方が親和性が高い、という点にあるようである。これについて、「なぜ」を解明するような説明原理がまだあるわけではないが、少なくとも、まずは、どのような理論仮説を築く必要があるのかを、明らかにしておくことが求められるであろう。そうした理論仮説の構築のために、①ことばの流麗さ(たとえば語用論)とことばの骨組み(統語論・文法)の比較、②話しことばと書きことばの比較、③自閉症のある子どもと想像力、などから取り扱っておきたい。

 (c)自閉症とある子どものことばの発達の特徴は、自閉症の有無にかかわりのない・一般的な・言語習得論に跳ね返ってくる。
 ①トマセロの言語習得論は、「心の理論」を内に含み、相手の意図の理解をもとに「言語パターン」をうまく発見するという考え方であるため、「心の理論」に弱さのある自閉症児が方言を発話しにくいことは説明してくれるが、共通語を話す傾向にあることは説明しえない。
 この傾向を解明するためには、すくなくとも次の2つの問いに答える必要があるであろう。
 ②健常な発達において、方言を話すことと共通語を話すことはどのように繋がっているのか。
 ③それとかかわって、言語習得における「生得的なもの」とは何か。

 これらはまだ、私自身にとって、探究の途上である。


I スペクトラム(連続体)とサブカテゴリー

【カテゴリー的理解とスペクトラム(連続体)的理解】
 自閉症について、カテゴリー的理解からスペクトラム(連続体)的理解へと変化していった契機のもっとも大きなものは、アメリカ精神医学会の診断・統計マニュアル(DSM-5、2013年)において、スペクトラムの考え方が採用されたことであった。その背景には、カテゴリー的な診断が難しいことがあった。

【スペクトラムとサブグループ】
 最初に自閉症にスペクトラム(連続体)の観点を導入したのは、イギリスのローナ・ウィングであった(ローナ・ウィング『自閉症スペクトル――親と専門家のためのガイドブック』久保紘章他訳、東京書籍、原書の出版は1996年、邦訳1998年)。彼女は、「自閉症スペクトル障害」は広範囲の現象を指すので、サブグループを探し出すことが必要となるが、そこに難しさが存在する。たとえば、アスペルガー症候群とカナー症候群とは全体としてみれば異なっているが、前者の特徴におさまる人、後者の特徴におさまる人もあれば、それらにおさまらず両者の特徴を併せ持つ人もいる。おそらく、そのようにカテゴリー的な分析は現状では十分な分類に適していないということから、スペクトラムの観点が生まれたのであろう。
 ローナ・ウィングは、スペクトラムの観点から自閉症を捉えたときに、診断的意義をもつ主たる行動を、①社会的相互交渉の障害、②コミュニケーションの障害、③想像力の障害、④反復した常同的動作、の4つを上げている。
 この4つの特徴は具体的であり、後のことばの考察のときに応用しようと思う。

 サイモン・バロン=コーエンの研究では(サイモン・バロン=コーエン『自閉症スペクトラム入門』中央法規、水野薫他訳、原書は2008年、邦訳2011年)、「社会的コミュニケーションの障害」と「反復的行動/狭い興味」との2つを自閉症スペクトラムの特徴としている(ローナ・ウィングの①、④)。
 スペクトラムのサブグループはいっそう緻密に示されている。彼は、知的水準(IQ)とことばの遅れの有無(遅れの基準は、単語を2歳で表出しない、文を3歳で表出しない)とによって、次のように分類している。
 アスペルガ−症候群 IQ85以上でことばの遅れがない。
 高機能自閉症 IQ85以上でことばの遅れがある。
 中機能自閉症 IQ71〜84でことばの遅れがあったりなかったりする。
 低機能自閉症 IQ70以下でことばの遅れがあったりなかったりする。
 非定型自閉症 非定型な発症の遅れか、2つの特徴(知能の状況とことばの遅れ)の1つしかない。
 特定不能の広汎性発達障害 アスペルガ−症候群や自閉症の診断基準に明確に適合するとは言い切れないものの、普通より多くの自閉症の特徴がある。

【自閉症スペクトラムの図】
 〔バロン=コーエンによる〕
  「正常」な集団            PDD-NOS 非定型   AS   自閉症
←――――――――――――――――――→←―――→←―――→←―――→←―――→
           〔PPD-NOS:特定不能の広汎性発達障害、AS:アスペルガ−症候群〕

【診断と治療・保育・教育との「矛盾」】
 ところで、スペクトラムの考え方にもとづく診断と、治療・保育・教育(などの働きかけ)との「矛盾」らしきものを指摘しておこう。

 治療・保育・教育の方向は診断に基づくものと考えると、不安定な尺度では、その子どもに対して正確な方向を取ることができない。その意味でまだ不安定なカテゴリー的尺度は採用しない方がよいであろう。

 スペクトラム(連続体)という考え方は、自閉的傾向は「一人ひとり違う」という考えに導くものであり、それ自身は個人を尊重することに繋がる。この考えは、子どもを理解するという側面においては(ある意味では自閉症以外においても)ある程度、有効であると考えられる。ただし、自閉的傾向のある子どもに対するある実践がどの範囲の子どもにも有効であるのかがわからなくなる。ここに「矛盾」がある。

 たとえば、東田直樹君の話しことばの事例(東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由——会話のできない中学生がつづる内なる心』エスコアール、2007)
〔その英訳には、次の本がある。——Naoki Higashida, the Reason I jump: One boy’s voice from the silence of autism, Translated by KA Yoshida & David Mitchell, Sceptre, UK, 2013/2014〕)
 ・会話ができないとはどういうことか。——「僕は、今でも、人と会話ができません。声を出して本を読んだり、歌ったりはできるのですが、人と話をしようとすると言葉が消えてしまうのです。必死の思いで、1〜2の単語は口にだせることもありますが、その言葉さえも、自分の思いとは逆の意味の場合も多いのです」(「はじめに」p.2)。
 ・それの本質的な改善として、「文字盤」「キーボード」。——「僕が自分の意志で筆談ができるようになるまで、長い時間が必要でした。鉛筆を持った僕の手を、お母さんが上から握って一緒に書き始めた日から、僕は新しいコミュニケーション方法を手に入れたのです」(pp.12-13)。「自分の力で人とコミュニケーションをするためにと、お母さんが文字盤を考えてくれました。文字を書くこととは違い、指すことで言葉を伝えられる文字盤は、話そうとすると消えてしまう僕の言葉をつなぎとめておく、きっかけになってくれました」(p.13)。
 ・これは、どこまで他の自閉症児に応用可能なのかはストレートに言うことができない。
※ただし、翻訳者の1人デイヴィッド・ミッチェルは、この本を通して、自閉症のわが息子を初めて理解できたと思った、と書いている。
《It felt as if, for the first time, our own son was talking to us about what was happening inside his head, through Naoki’s words.〔直樹のことばを通して、わが息子〔自閉症の〕があたかも自分の頭の内側で起こっていることを私たちに語りかけているかのようだ、と、初めて感じられたのである。〕》p.8
 つまり、東田くんの経験は海外においても意味があることを示している。しかし、あらゆる自閉症児に意味があるのか、また、東田君の経験のどの部分が意味をもつのかは、厳密に考察しなければならない。

【 自閉症の実践的理解と研究的理解】
 前項に述べたことは、大まかに言えば、「実践的理解」と「研究的理解」とに区別して捉えることができるであろう。

〇実践的理解
 「自閉的傾向の子どもは1人1人違う」という認識は、連続体的理解に適合する。当面はこれが自閉的傾向のもっとも実践的な理解であろう。しかし、ある事例のもつ教訓的なものが他の人にも共通するということが難しくなる。ある教訓が、別の子どもにどこまで通用するのか(あるいはしないのか)を、1から考え検証することが求められるであろう。

〇研究的理解
 自閉スペクトラム症という考え方を受け入れた上で、サブ・グループのカテゴリー的理解を深めることが求められる。そのために、心理学的研究とともに、神経学的研究の進展も必要とされるであろう。

 ※そして重要なことは、将来、上記のカテゴリー的理解が精度を高めたとき、実践的理解と研究的理解は近づくことになるであろう(完全に合致することはないとはいえ)。


II 「心の理論」未成熟説

【種々の心理学的説明】
 バロン=コーエンは、自閉症・アスペルガー症候群を説明する心理学理論を5つ上げている。すなわち、①実効機能〔活動コントロール能力〕障害仮説、②弱い中枢統合性仮説〔「中枢性統合」脆弱説〕③マインドブレインドネス仮説〔「心の理論」未成熟説〕、④共感化―システム化仮説〔②③を発展させたもの、感覚過敏なども説明〕、⑤大細胞仮説。(バロン=コーエン、前掲書、第5章、上記の諸仮説の有効な項目についてはpp.114-7)

【「心の理論」にもとづく自閉症の理解】
 上記の③が「心の理論」の未成熟という観点から自閉症を理解しようとするものであり、ある意味では、もっとも拡がっている自閉症理解の仕方であろう。〔また、子どもが「心の理論」をもつことが言語習得に繋がるというのがトマセロの理論の柱の1つであった〕。
 この「心の理論」にもとづく自閉症の説明は、ローナ・ウィングらの研究をもとに、ウタ・フリス、アレン・レスリー、サイモン・バロン−コーエンらによるものであり、概ね、「自閉症における3つの主な特徴〔社会的相互作用の障害、コミュニケーションの障害、想像力の障害〕は『心を読む』という人間の基礎的能力の障害に由来する」(フランシス・ハッペ『自閉症の心の世界―認知心理学からのアプローチ』石垣好樹他訳、星和書店、1997年)とするものである。それを言いかえれば、「自閉症は考えについて考える能力を欠き、そのためある種の(全てではないが)対人関係、コミュニケーションのスキル、想像におけるスキルに特異的な障害があることを示唆している」(p.65)のである。
 自分が考えというものを持っているように、他者も考えをもっている。他者の心を読むとは「この考えについて考える」ことであり、その能力が欠如あるいは弱化しているのが自閉症の特徴だと考えられている。それが「心の理論」未成熟説である。

 それをより詳しく説明すれば、以下のように、「一次表象」と「メタ表象」の関係が重要となる。
 「考えについて考える能力を欠き」ということが、この理論を理解するポイントである。他者がどう考えているのかという洞察に必要なのは、他者が行う「モノとそれについての考え」(一次表象)を考えるということ(メタ表象)である。
 「モノとそれについての考え」(一次表象)にもとづいた行為とは実際の行為であるが、その行為のフリをするというのはメタ表象にもとづいた行為である。したがって、こうした行為を可能にすること(メタ表象を持ちうること)と他者の「心を読む」ことができるというのは、同じことなのである。
 「心を読む」、より正確に言えば、他者の「行動を説明したり予測する」ためには、「自己や他者に独立した精神状態がある」と捉えられるのが前提となる。これが「心の理論」である。
 〔もちろん、こうしたことを可能にするのは、根本的には、想像力の発達が一定水準を超えることである。〕

【いわゆる「サリーとアン課題」とバロン−コーエンによる実験】
 有名な「サリーとアン課題」という実験がある。「サリーは心の中ではどう捉えているのか」を確かめるという実験である。

 サリーは籠のなかにボールを入れて、しばらくそこを離れました。それを見ていたアンは、ボールを籠から出して箱のなかに入れました。戻ってきたサリーはボールを取り出すために、籠をあけて見るでしょうか、それとも箱をあけて見るでしょうか。――という実験である。
 正答はもちろん、サリーは籠をあけたことである。なぜなら、サリーはアンがボールを箱に移し替えたことを知らないからである。(言いかえれば、「サリーはボールは籠の中にある、と思っている、と自分は考える」というのがメタ表象である)。

 バロン−コーエンはこの実験を自閉症のある子どもやダウン症のある子どもを対象にして実施した。その結果、精神年齢4歳以上の自閉症児の80%が誤答し、精神年齢4歳児以下のダウン症児の86%が正答した。自閉症のある子どもにとって、「他者の心が読めない」(「メタ表象」の未成熟)が特徴であることが、確認されるのである。
 【ハッペの上記書物p.70掲載の図参照】

 このように、「心の理論」(言いかえればメタ表象)が未成熟であるために、相手の意図が理解しにくく、社会的な交わりや、言語によるコミュニケーションや、相手の身になって想像することに、何らかの「障害」がもたらされる。これが自閉症の特徴なのだ、と言うのである。
 たしかに、この「心の理論」未成熟説によって、自閉症の理解をある程度はカバーすることができるが、どうしても説明できないことが残っている。その一部を説明しうるものは、次に述べる「中枢性統合」脆弱説である。

III 「中枢性統合」脆弱説

 ここでは、ハッペ『自閉症の心の世界』第10章「残された謎、今後の展望」(星和書店、1997年)を参照する。

【「心の理論」未成熟説から説明できないもの】
 自閉症をめぐる問題の歴史の初期に活躍したカナーやアスペルガーの記述したもののうちで、主要3特徴以外のものは、「心の理論」未成熟説から説明しにくい。
 具体的には次のようなものである。

 「現局された興味の範囲」
 「同一性への強迫的な要求」
 「島状の能力」
 「サヴァン」(ハッペの上記著作の訳者による脚註によれば「savant。精神遅滞があるにもかかわらず、ある特定の領域でその知的レベルからは考えられないすぐれた特異な才能を示す状態。日本では山下清や大江光がその例と考えられる。」p.10)
 「すぐれた機械的記憶」

※やや大まかに言えば、「心の理論」未成熟説では、「欠けたもの」を言い表せたとしても自閉症のもつ「すぐれたもの」を説明できないのである。次に述べる「中枢性統合」脆弱説によって、「すぐれたもの」「欠けたもの」の双方の説明が可能となる。

【全体的文脈から切り離された個別的なものの意味――「ギョーザ」の事例】
 「中枢的統合」の脆弱性とは、個々の事物(モノ)の意味が全体的な文脈から切り離されて捉えられることを意味している。

 その分かりやすい事例は、次のような「ギョーザ」の事例である。
 「聡明な自閉症の少年をテストするために、臨床家は人形のベッドを見せた。そしてその子に各部の名前を尋ねた。その子どもは、ベッドや布団については正しく言えた。臨床家は枕を指差し、『これは何』と尋ねた。その子どもは『ギョーザ』と答えた。」(ハッペ、前掲書、p.201)

 若干、解説すれば、この自閉症のある子どもは、人形のための家具セットのうち、枕だけは「ギョーザ」と答えた。ベッドの上に「ギョーザ」があるはずはないので、この事物(モノ)を全体の文脈から切り離し、ただ見た目が似ているということから「ギョーザ」と答えたのであろう。〔ハッペ、前掲書、 p.202の図を参照のこと〕。

【自閉症者の極度の弱さと極度の強さ】
 こうして、全体(文脈的意味)に統合されない部分(文脈とは無関係で羅列される部分的意味)があり、それが「中枢性統合」の脆弱性とされるものである。
 ただし、それは健常者と比べてみて、弱さとも強さとも捉えられるものである。【ハッペ上記書物、p.200の表】。

 たとえば、「逆さまの顔も識別する」という(健常者と比べた)極度の強みがあるものの、「顔を妥当に識別する」という点では(健常者と比べて)弱みとなる。
 それは知覚についてのことである。自閉症者においては、「さかさまに示された顔」の区別は間違えることが少ない。これは長い間、謎とされてきたようだが、部分(顔の各部位)と全体(各部位の布置)との独特な関係から説明することができる。顔をさかさまに示すと、布置(全体)の力が弱まるので、各部位(部分)の優位が浮かび上がり、自閉症者の正答率が上昇する、と考えることができるであろう。この事例は、布置(全体)を捉えにくいという点では「欠けている」と考えられるが、顔の識別という点では「優れている」と言うこともできるであろう。

 語の意味について。自閉症者(児)は、全体の文の意味にとらわれずに、部分(単語)を理解したり使用したりする傾向にあるようだ。それを調べるために、同形異義語(同時に同形異音語でもある)を使って、正答率が把握されている。
 たとえば、英語を例にすれば、bowという単語は①ボウ、②バウの2つの読み方がある。どちらの読み方の語も語源は同じで「曲げる」「曲がる」というものだが、①のボウは、曲がったものを広く意味し、たとえば、ハサミの柄、チョウネクタイ(bow tie)、rainbowに使われる。他方、②のバウは、おじぎをする、従う、という意味である。たとえば「彼はピンクのネクタイ〔bow、ボウ〕を持っていた」「彼は深くおじぎ〔bow、バウ〕をした」を文の脈絡に合わせて正しく読めるかどうかが調べられた。自閉症児が脈絡にあわせた正しい発音で読めたのは、10の課題のうち5〜7であり、健常児と読み障害の子どもは7〜9であった。

 より一般的に言えば、全体優位の捉え方(健常者の)は様々な部分をより正確に位置づけることができるが(たとえば、ある事物をあらゆる他との連関において捉えるというような場合)、新しいものを産み出すときには(創造的思考の場合には)、健常者も意識的に「様々な連関」を取り外して事物を捉えることをする。
 たとえば、新型コロナ・ウイルスに対する特効薬はまだない。そのとき臨床医は既存のコロナ型ウイルスのために開発された薬を「何とか効いてくれ」と投与することがある。その投与以降、うまく治癒しつつあるとき、どのような条件のもとでなら効果があるかを整理しようとする。これは「あらゆる連関において」この薬を捉えることなのであり、これがとりあえずの「医学的」な思考であろう。ところが、「あらゆる連関」をとりはずして、「患者が回復してきたのは薬の故であるよりは『自然治癒力』によるかもしれない」と考えることもある、と言われる。このような思考は、全体的優位の観点を意識的に遠ざけて真理を追究する、という場合の思考である。そのような思考様式と自閉症のある人の思考様式(全体から解き放たれた部分の考察)と一脈通じあっているかも知れないのである。

IV 自閉症児はなぜ方言よりは共通語を話す傾向をもつのか

【問題提起】
 自閉症理解のための代表的な心理学的理論――「心の理論」未成熟説と「中枢性統合」脆弱説とを見てきた。これらによって、自閉症そのものの理解のみならず、自閉症児のことばの習得(発達)や使用についても、ある程度までは理解することができる。
 しかし、自閉症児はなぜ方言よりは共通語を話す傾向をもつのか、という問題は、いままでのところ、未解決なままである。ここでは、その問題について考察してみよう。

 自閉スペクトラム症の子どもは方言を話さない傾向を持つ。このことについては、松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない——自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く』(2017年、福村出版)が証明しようとした。また、そのことは、自閉症児のいる就学前の園の保育者たち(別に津軽地方に限らない)の実感によっても、強められている。
 さらに言えば、健常発達の子どもにとって、話しことばは方言にもとづくものであるが、書きことばは、自閉症の有無に拘らず、共通語にもとづくものである。

 ところで、上記のことは語の使用に関することであるが、問題が言語習得となると、解明すべきことはさらに複雑になる。
 松本敏治によれば、話しことばの習得について、健常発達の子どもは、自閉的傾向がないのであるから、「心の理論」にもとづいて相手の意図を読みつつ、ことばを方言で習得するが、自閉症のある子どもは、それとは違う道を歩む、と言う。松本による結論づけでは、「心の理論」の未成熟な自閉症児の話しことばの習得(共通語にもとづく)は、端的に言うと、テレビやビデオで共通語を聞くことを通した、一種の連合学習によってである、と。

 私自身は、この言語習得に関する結論づけには少々疑問がある。障害の有無にかかわらず、子どもは同じ発達の道を歩む。障害のある子どもは部分が欠落するという意味で部分的な発達の道を、障害のない子どもは全体的な発達の道を歩むが、その道は同じ道である。〔また同様に、精神疾患の有無にかかわらず、人は発達の同じ道を歩む、ただし、精神疾患のある人はその道を上から下へと、精神疾患のない人はその道を下から上へと歩む〕。このことが正しいとすれば、自閉症の有無に拘らず、子どもは発達の同じ道を歩むと考えるべきであり、概して言語習得において方言と共通語はきわめて複雑な関係を生み出しているのではないか、と推測されるのである。

【松本敏治による自閉症児の方言調査】
 松本敏治は津軽、北東北、全国を対象にしたASD児の方言使用についての調査をおこなった。それは、自閉症児を担当したことのある特別支援学校や保健師がもつ「印象」、ASD児は方言を使用する傾向にあると考えるかどうかの印象を調査するものであった。この場合の「印象調査」はたしかに主観を調査するものではあるが、①調査対象が比較的にASD児に接する機会のある人であること、②どのような場面において方言を話し、あるいは、共通語を話しているのか、ではなく、大まかに「傾向」を尋ねることによって、真の実態をどのように推測しうるかを示したものであること(もし厳密さを追究するとすれば、下記のバロン−コーエンのような調査方法が必要となろうが、それは大量調査にはなじまないものであろう)、という点で、一定の意味をもった調査であった。

 その結果は、おおよそ、次のものである。
 青森の調査においては、「ASDは方言を話さないという噂を知っているか」の問いに対して58名中24名、41%が「知っている」と解答。さらに、噂を聞いたことがある人、ない人のすべてにおいて、この噂は「事実」および「ある程度事実」という回答の割合は、64%であった。
 さらに、青森の調査において、地域の子ども(TD児)、知的障害のある子ども(ID児)、自閉症のある子ども(ASD児)の方言使用状況に関して、大人による評定を比べてみると、方言を「まあ話す」「よく話す」の割合は、TD児で約75%、ID児で約55%、ASD児で約20%であった【秋田県北部における調査も同様の傾向であった】。(松本敏治、前掲書、pp.18-20, pp.30-34)
 松本の本には北東北、全国における調査についても掲載されているが、詳しくは省略するが、どの調査においても、ASD児における方言不使用の傾向が明らかとなっている。

※海外での研究より
 たとえば、バロン−コーエンらの研究——この研究は、イギリスにおいて、英語が母語でない母親のASDの子どもとその兄弟(ASDではない)の発話の比較調査をしたもの。録音された発話サンプルを使って分析したところ、ASDの子ども(本人は英語で育っているけれど)のサンプルにおいては83.3%が母親のアクセントを使っていた。一方、定形発達(健常発達、TD)の兄弟では、12.5%のみが母親のアクセントであった。TDの兄弟の話し方は母親よりも地域の子どもたちに近い話し方であった。(松本敏治、前掲書、p.80)
〇この研究は、健常発達の子ども(概して人間)は「生まれ育ったその土地のことば」を身につけるという経験的事実の真実性を示しているし、その「地域の子どもたちに近い話し方」とは方言(地域方言)であることも推測される。

【ASD児はなぜ方言を話さない傾向を持つのか? 「心の理論」と「語用論」からの説明】
 松本敏治は、この問いに対して、心理学的には「心の理論」から、言語学的には「語用論」から答えようとしている。
 「心の理論」から説明――相手の発言の「意図」を読むことができないので、話しことば(方言)が身につきにくくなる、と考えられている。たしかに、健常発達の人が、その場その場に応じて、方言と共通語とを使い分けている。このことは、相手の意図や気持ちを読むことなしには不可能であろう。

 「語用論」からの説明――言語学における「語用論pragmatics」は上記のような「心の理論」と密接な関係がある。語用論は「話し手の意図が聞き手にどのように伝わるのか」とか「聞き手は話し手の意図をどのように受けとめるのか」とかというような事柄を研究する領域であり、語の意味がストレートにそのまま伝わることを前提にした「コミュニケーション理論」よりも高度なことを取り扱っている。
 「比喩表現」「皮肉表現」のような、語のストレートな意味とはズレてくる意味の伝わり方が語用論研究の主な材料のようである。それらが「心の理論」と密接な関係を持つのは、第1水準の「心の理論」(「AさんはXという考えを持っている」と私は考える。いわゆる「サリーとアン課題」)、第2水準の「心の理論」(「AさんはXという考えを持っている、とBさんは考えている」と私は考える)と比喩、皮肉、嘘とが関連づけられるからである。
 ①第1水準「心の理論」を持たない場合には直喩は理解できても隠喩は理解できないこと【直喩は「まるで〜のようだ」というように比喩を明示する表現で、例えば「彼女は白百合のように楚々としている」。隠喩は直喩のような明示性がない、例えば「恋は盲目である」。】、②第1水準「心の理論」はあるが第2水準「心の理論」がない場合には、隠喩の理解はできるものの、皮肉の理解はできず皮肉と嘘との区別ができない、③第2水準「心の理論」が達成されると皮肉の理解、皮肉と嘘との区別が可能になる(ハッペの研究、1993年による)。

 以上のように考えてくると、自閉症児が「方言」を話さない傾向にある(健常児が「方言」を話す傾向にある)ことは、たしかに「心の理論」と「語用論」とによって説明がつく。

 では、自閉症児が「共通語」を話す傾向にあることは、どのように説明できるのか。松本敏治はここで健常児とはまったく異なる言語習得の源泉を提起している。つまり、共通語を聞くことのできるテレビやビデオを通した「連合学習」によってである、と。【ここで言う連合学習とは、かなり古い学習理論であり、経験的に、ある語とあるモノが結びついている(連合している)ことを学ぶというだけの学習理論である。そこでは、子どもの主体性のようなもの、たとえば造語のような「模倣と創造」との統一を通して、ことばを学習するということが視野にはいってこない】。私の疑問は、TD児(健常児)の言語習得の道とASD児の言語習得の道に根本的な違いがある、という点にある。

【説明の落し穴——言語習得の問題】
 松本は追究すべき言語の使用と習得との基本的命題を次のように3つ、上げている。
 ①TD児は方言(周囲のことば——自然言語)をどうやって身につけるのか?
 ②ASD児が方言を身につけられない理由はなにか?
 ③ASD児はどうやって共通語を学ぶのか? (松本敏治、前掲書、p.143)

 この点とかかわって、松本敏治は子どもの言語習得の2つの道筋をあげている。
 一方では、他者とのやりとりのなかで相手と注意を共有し(共同注意フレーム)、(相手の)意図を読み取り、他人をモデルとしてその人を自分のなかに取り入れるようにことばの表現方法を学んでいく道筋(言いかえればトマセロ理論に沿った筋道)と、もう一方には、機械的あるいは連合学習的にことばを学んでいく道筋である(松本敏治、前掲書、p.217)
 松本敏治は、前者の道筋はTD児の言語習得の主たる道であり、後者の道筋はASD児の言語習得の主たる道である、と考えている。後者の道筋とは、具体的には、上で述べたような、共通語を聞くことのできるテレビやビデオを通した「連合学習」である。

 そのように考えられるのは、2種類の障害にもとづいて(振り分けて)、方言不使用と共通語の言語習得を理解しようとしているからであろう。
 アメリカ精神医学会の診断基準ガイドラインの変化【DSM-IVからVDSM-5へ、2013年】は先述した。具体的には、社会性の障害、コミュニケーションの障害、限定された興味や活動(こだわりや想像力欠如)という3分類から、社会的コミュニケーションの障害、限定された興味と反復行動の2分類へと、変化している(松本敏治、前掲書、p.134-5)。
 方言不使用は社会的コミュニケーションの障害の故であり、共通語の習得は「限定された興味と反復行動」に、つまり機械的記憶にもとづく連合学習に帰着されている、と松本は考えているのではないか。

※基本的命題に欠けているもの
 ①の命題は、次のような点を補充すべきであろう——TD児は方言(周囲のことば——自然言語)をどうやって身につけるのか? また、TD児は共通語をどうやって身につけるのか?


【言語習得の問題を深める】
 上述した基本的命題の補充にあるように、TD児は、方言をどのように習得するのかという問題のみならず、共通語をどのように習得するのかという問題にも答えねばならない。つまり、言語習得の問題をより深く掘り下げなければならないのである。

語用論と統語論(文法論)。——方言が心の理論—語用論のメカニズムのなかで(トマセロの言語習得論に沿って)習得されるとして、それならば、共通語はそれとは無関係のところで習得されるものなのか? まずはこの問いに答えることが肝心である。心の理論—語用論のメカニズム(話し手の発話の意図を読むという点で)はたしかに方言と共通語との使用の切り替えには重要であるが、このメカニズムが統語論(文を構成する規則)を中心とする文法の習得にとって十全であるのかについては、多少疑問が残る。ことばの習得、その基礎の1つとしての文法の習得にとって、3項関係や上記のメカニズムの形成は有益な条件ではあるが、決してそれだけで十分だとは言えない。種として持っている関連づけや法則性への愛着が文法習得のもう1つの側面であろう。方言として聞いたことを共通語に変換していくのに与るのは、こうした側面であろう。つまり、そこでは、自然的なものと文化・歴史的なものとが「せめぎ合って」いるのである。

ことばの理解と発話。——自閉症当事者の東田直樹君は、発話しようとする自分のことばが消えていくと述べている【「僕は、今でも、人と会話ができません。声を出して本を読んだり、歌ったりはできるのですが、人と話をしようとすると言葉が消えてしまうのです。必死の思いで、1〜2単語は口に出せることもありますが、その言葉さえも、自分の思いとは逆の意味の場合も多いのです。」東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』エスコアール、2007年、p.2。「自分の力で人とコミュニケーションをするためにと、お母さんが文字盤を考えてくれました。文字を書くこととは違い、指すことで言葉を伝えられる文字盤は、話そうとすると消えてしまう僕の言葉をつなぎとめておく、きっかけとなってくれました。」p.13】。つまり、東田直樹君の言っていることは、相手のことばは理解できていたということであり、理解と発話とはズレがある、ということなのである。言いかえれば、ことばの理解と発話とは必ずしもイコールではない、ということであり、方言を話さないとしても方言を理解していない、とは言いきれないのである。

言語習得に必要な想像力——自己化と一般化。——自己化(たんなる行為の模倣ではなく):「人をそれぞれに特徴をもった個人として捉えられるようになり、その人らしい身ぶりやことばの模倣が可能になってくる」。「その人の心的状態、考え方の特徴の」{149}「把握がその基礎にある」(松本、前掲書、pp.148-9)。ここで言われている「自己化」は、幼児期においては、「イメージの遊び」、とくに「劇遊び」に関連してくる(演じる対象となる人、つまり、作中人物のその人らしさを表現する)。ところが、同じく「イメージの遊び」のなかには「ごっこ遊び」があり、そこでは模倣の対象となる人はその一般的特徴において表現されていくのである(お母さんというものはこのように振るまう、バスの運転手というものはこのように振るまう、というように)。そこでは「一般化」が特徴である。言いかえれば、言語に必要な想像力は、語用論からすると「自己化」がぴったりするが、統語論(文法論)からすると「一般化」がふさわしいのである。

 ▷言語習得の問題を深めるために、以上のように、①語用論と統語論(文法論)、②ことばの理解と発話、③言語習得に必要な想像力としての自己化と一般化、というものが複雑に絡み合っていると捉えるべきであろう。


V 「比喩的なことば」と「規則的なことば」

【流暢(りゅうちょう)なことば】
 つまり「流れるような」ことばの第1にあげられるのは、生まれ育った土地のことば、つまり地域方言(言語学には「階級方言」という概念もあるので〔たとえば英語の場合、社会階層の所属によってことばのイントネーション、語彙、文法さえ異なる、という意味で階級方言という語さえある〕、日本語の方言は厳密にいえば地域方言。)である。もし、「流暢さ」を発話のテンポと捉えるなら、対話と独話はその点において対照的であり、それはヤクビンスキーの用語を使えば、ことばの自動主義と新しいことばの創造との対照ともなる。
 もちろん、次のような対照は、同じ対照、同一の対照化とは言えないが、どこかにパラレルさを持っている。すなわち、〔方言―共通語〕、〔話しことば―書きことば〕、〔対話―独話〕という対照である。少なくとも、それぞれの前者の項目は、ことばの「流暢さ」と親和性が高いと言いうるであろう。そして、そこに自閉症のもつ弱さが現れている。

【「比喩的なことば」と「規則的なことば」】
 すでに松本敏治の研究のなかで紹介したように、自閉症のある子どものことばの弱さ(それは方言不使用にも代表的に現れている)は、「心の理論」から、また、言語学的には、その理論と内的に繋がっている「語用論」から、説明することができる。後者による説明からは、自閉症のある子どもは、直喩を除いて、隠喩、皮肉、嘘を表すことばを理解することに困難を感じる傾向にある。このような自閉症児のことばの傾向を「比喩的なことば」の弱さと表しておこう。
 ところで、幼児の場合には、すでに述べてきたように、いわゆる孤立語・膠着(こうちゃく)語・屈折語にかかわりなく、2歳代に統語論などの文法を無意識的に習得し、4、5歳代には頻繁に独特な「造語」が、たとえば、英語で例示すれば、せっかくwent(goの過去形)を覚えたのにgoedと言いなおすような「ことば」、日本語で言えば「あおばい」「ピンクいお花」という語、ある意味では文法規則にあまりにも忠実な(文法的な過剰一般化と呼びうるような)「造語」が、見られる。これはまさしく、「規則的なことば」である。あえて言えば、「規則」が明瞭に感知できるという意味で、共通語とは「規則的なことば」である。そうでなければ、その土地で話していない多くの人さえ使用する言語とはならないからである。
 以前に述べたように、大きく見れば、障害の有無に拘らず、子ども・人間は同じ発達の道を歩み、障害のある子どもの発達は部分の欠落が特徴であるものの、道そのものは同じである(したがって、欠落した部分を中心とした補償が成り立つ)。ここで重要なのは、概して言語習得(言語発達)においては「比喩的なことば」と「規則的なことば」は手を携えて進んでいくのであるが、自閉症のある子どもにおいては、「比喩的なことば」は傷めつけられ弱くなっているが、「規則的なことば」は生きていることであろう。あたかも独特な「造語」が無意識に創造されるように。

【自閉症についての共感化―システム化仮説】
 以上のような、健常な言語習得と自閉的傾向のある言語習得とに照応する自閉症の説明原理は、いまのところ、バロン=コーエンが紹介する「共感化―システム化仮説」がもっとも過不足のない唯一のものであろう。
 ここで言う「共感化」とは「心の理論」が「知的共感化」を指しているのに対して、「知的共感化」のみならず「情緒的共感化」をも意味している。他方、「システム化」とは「ルール化」「規則化」への傾向である。
 ここで重要なのは、この両者、つまり「共感化」と「システム化」は通常は何らかのバランスが取られている(全体的なバランス、共感化優位のバランス、システム化優位のバランス)が、自閉症スペクトラムのサブグループである「アスペルガー症候群」を取り上げてみると、「システム化」は強いものの「共感化」は皆無に近い。これらを図で示すと次のように表される(サイモン・バロン=コーエン『自閉症スペクトラム入門』水野薫他訳、中央法規、原書2008、邦訳2011年、pp.108-9)。
 この「共感化」と「システム化」の均衡論は、人間を理解するうえで情と知との両モメントを考慮しなければならないこと(もちろんたんなる均衡ではなく実相はもっと複雑である)、また、子どもについて言えば、幼児の遊びにおいて前面に現れている「想像的場面」は絶えず「行動ルール」を秘めていることにも照応している。言語習得とは、「共感化」と「システム化」との「せめぎ合い」だと言いうるかも知れない。



おわりに――より広い視野からの探究

【方言と共通語との関係を究める観点】
 《方言と共通語》という観点から問題を捉えてみると、今回の講義で述べてきたことは
 ①自閉症児のことばについてであり、ASD児は方言を話さない傾向にあり、TD児は方言を話す傾向にあること、であった。
 それ以外にも、方言と共通語の問題を考える糸口はある。
 ②方言としての話しことばと共通語としての書き言葉。
 ③ごっこ遊びの中での発話は共通語であることが多いこと(「スカーレット」における照子の「ごっこ遊び」のごときセリフのイントネーション)。
 ④外言(話しことば)が方言であるのに対して、独り言と内言は共通語が用いられている可能性があること(たとえば高齢者の独り言より)。
 ASD児が方言を話さないということから何がわかるのか、という①の課題は、それと並行して、②〜④の課題を追究することによって、より完全に明らかにすることができるであろう。

【3つの領域での「理論革命」】
 それとともに、より広い視野から問題を捉えた場合、自閉症のある子どもの方言不使用・共通語使用の傾向は、たんに、「そう言えば、そうだなぁ」というようなエピソードに留まらないものがある。その事実そのものが、それについての考え方の変更を迫るような「革命性」を帯びている。以下のものは、まだ私自身の「理論仮説」である。

 (a)話しことばと書きことばの問題は、つきつめていくと、方言と共通語の問題とパラレルになる。ごっこ遊びにおいて使われる即興的な「台詞」は共通語で話される傾向にあるが、このことは現実場面では方言を使っている子どもが想像場面では共通語を使うことを意味している。さらに、独り言や内言が共通語を使っていることが明らかになれば(そのためには、幼児の独り言と高齢者の独り言の研究が必要となるであろう)、それは思考の平面で共通語が使われていることを意味するであろう。このように、方言と共通語の関係からは、たんに、社会言語学的問題のみならず心理言語学的問題も導き出すことができるであろう。

 (b)自閉症を説明する理論については、自閉症児の共通語使用の傾向は「心の理論」未成熟説から説明できず、また「中枢性統合」脆弱説からだけでも説明できない。バロン=コーエンの上げる自閉症説明諸理論のうちでは、「共感化―システム化仮説」がもっとも近似的に説明しうるものであろう。

 (c)トマセロの用法基盤的原理にもとづく言語習得論は、「共同注意フレーム」「相手の意図の理解(心の理論)」「役割交替を伴う模倣」を基礎にして「大人との言語交流のなかでの言語パターンの発見(統語論などの文法、語用論)」を行うというものであるが、基礎にある3つの点はすべて自閉症児には未成熟なものであるので、トマセロ理論は自閉症児の言語習得論についてはほとんど無力である。ということはつまり、概してトマセロの言語習得論は不完全だと言わねばならない。基礎にある3つの点が弱くても、自閉症児も言語を習得するというのは、人間という《種および個人の自己保存力(conatus)》が言語を習得させているという他はなく、そこに、トマセロが認める以上の(つまり基礎にある3つの点以上の)自然的なもの、生物学的なものを想定しなければならないであろう。ここにチョムスキーの「普遍文法―生成文法」理論を部分的に復活させねばならない。ところで、トマセロ理論の相対化とチョムスキー理論の部分的復活とを導きうるものは、現代では、全面的に捉えられたヴィゴツキーの人間発達理論(第2〜3回講義参照)、その基底にある《自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」》の観点であろう。

 これら3つの領域――方言・共通語の心理言語学、自閉症の説明理論、言語習得の心理学において「理論革命」が起こるとき、自閉症児における方言・共通語の問題は完全な解決を見るであろう。松本敏治が行った探究はその最初の革命であった。ただし、いまのところ、未完の革命にとどまっている。

《おすすめ本》
 フランシス・ハッペ『自閉症の心の世界―認知心理学からのアプローチ』石垣好樹他訳、星和書店、原書1994年、邦訳1997年。
 ローナ・ウィング『自閉症スペクトル――親と専門家のためのガイドブック』久保紘章他訳、東京書籍、原書1996年、邦訳1998年。
 サイモン・バロン=コーエン『自閉症スペクトラム入門』中央法規、水野薫他訳、原書は2008年、邦訳2011年。
 東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由——会話のできない中学生がつづる内なる心』エスコアール、2007。
 松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない——自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く』福村出版、2017年。

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