〔2020/04/27〕第2回 人間発達論〔1〕

〔2020/04/27〕第2回 人間発達論〔1〕

「教育原論」受講生の皆さんへ——Web学習について

◯ここに掲載された資料(講義メモ)をよく読むこと。(月曜日5時限目に読んで下さい。なお、同じものを下記「お知らせ」中に掲載のURLにも載せています。それについてはブックマークを付けておいてください。)

◯講義メモの内容について、質問またはコメントをメールにて送付すること。(具体的には、下記の「お知らせ」に書いてあるので、それに則ってください。)

※まずはイベント自粛のなかで仕事を失っているアーティストに連帯して。
https://m.youtube.com/watch?v=tbf5A_MwYtY

《お知らせ》

◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、

https://kyouikugenron2020.blogspot.com/

に掲載します。授業の折には、このブログにタブレットやスマホでアクセスするか、それよりも望ましいことですが、事前にパソコンから印刷してください。

◯授業終了後に皆さんのコメントをメールで送付してください。
 送付先のメールアドレス、締切、送信上の留意点は以下の通りです。

bukkyo.bukkyo2017@gmail.com

 編集の都合上、水曜日の18時までに送信してください。
 「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。
 また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。
 なお内容的には、①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、②それについての従来の自分の考え、③自分にとっての「新しさ」の理由、を含んでいるのが望ましいと考えられます。
 あるいは、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。

《第1回講義への受講生のコメントより》

◯第1回目の初回の授業では、教育学と社会福祉学が繋がっており、ふたつがあってこそ成り立つことが分かりました。
 その中で新たに発見した点は、保育士を目指しているからといって乳幼児のことだけ学ぶのではいけないということです。もちろん私自身、乳幼児のことだけ学ぶのでいけないことは理解していましたが、これまでは乳幼児の繋がりのあるのは小学生までで、乳幼児から小学生までのことについて理解していれば良いと考えていました。しかし今回の授業を通して人は乳幼児から高齢者等年齢に関わらず何らかの点で繋がっていて、その繋がりを把握することができればどの時期の子ども・人間についても深く理解することになるということが分かりました。
 人間的自然など人間を理解する4つの観点をベースにこれからの授業でより専門的に乳幼児をはじめとする人間について学べることがとても楽しみです。特に私は言語について関心があるので、早く学びたいなと感じています。

【上記以外にも、同趣旨の意見が寄せられました。それらについて、私の方から若干のコメントを書いておきましょう。
 第1回の講義では、乳幼児のことを研究するときに、乳幼児のことだけを知っていればよい、ということにはならない、ということを強調しました。
 それをより詳しく述べると、①乳幼児と他の年齢期にある子ども・大人はその発達の上で深い繋がりがある。
 ②障害のない人の発達と障害のある人の発達は同じ発達の道を歩んでいる。後者は障害の部分に対する「補償」によって苦しみが軽減される(ここでの「補償」とは、たとえば、視覚障害のある人にとっての白杖〔はくじょう〕、点字、パソコン等によるテキストの音声化、盲導犬など。聴覚障害のある人にとっての手話、口唇術、発音、聴導犬など)。知的障害のある人の場合には、健常の発達とおなじ道を歩んでいるが、ある時点で発達が遅滞する、と考えることができる。
 ③精神病のある人は、健常の人と比べると、同じ発達の道を逆向きに歩んでいる。たとえば、少年・少女期の子どもが自己意識を形成し、それをもとに概念的思考を獲得するのに対して、統合失調症の人は、概念が崩壊していき、確立していた自己意識も崩れ出し、自他の区別があいまいになっていく。両者はちょうど逆向きに歩んでいる。〔ヴィゴツキーの考え方によれば〕
 ④これ以外にも、「進化樹」において人間の隣りにいる類人猿は、人間の子どもにかなり似ているとともに、もちろん両者の断絶も見られる。類人猿と比較することによって、人間の子どもの発達の特質がいっそう明らかになる。
 この講義では、必要に応じて、上記の点に留意してお話をしていきましょう。】

◯「〔教育を受ける権利を保障することが、保護者や国・地方自治体に求められる〕乳幼児と中学生は、自我の問題になぜ繋がるのかというのが疑問である」という質問が寄せられました。

【乳幼児期において「自我」が問題になるのは3歳代の「自我も芽生え」においてです。これを真に理解するためには、他の年齢期の自我の問題、たとえば、13歳頃の「反抗」を経て、その後に生じる内省する自我と比べてみることが重要でしょう。
 内省する自我とは、
 ①自分の内面を見つめること、
 ②「自分にとっての」他者というように、その人と自分との関係を意識するようになること、
 ③「自分にとっての」世界というように、世界と自分との関係を意識するようになること、
の3点を特徴としています。
 こうした広がりをつくりだしていく内省は、13歳頃の自我の変動によって生じるものであるので、当然ながら、3歳代の「自我の芽生え」には内省はまだなく、「自分には自我はあるのに、自我があることを知らない」という独特な状態のなかにある、と考えられましょう。】

《講義メモ》

 今回および次回の人間発達理論においては、きわめて広い視野をもちながらもそれが部分的にしか紹介されてこなかったヴィゴツキーの人間発達理論を取り上げることにしよう。

I 自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」

 ヴィゴツキーの人間発達理論の底流にあるものは、《自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」》という考え方である。まずはこの考え方について。

 過去から現代に至るまでの歴史において、ごく大まかに発達理論を大別すれば、次の3つの理論を取り出すことができるであろう。

 ①自然主義的発達理論
  この理論は概ね次のように理解できる。——植物は種子のなかに将来の成長・開花・結実が含まれている。成長していく力は種子のなかにある。生得的なものが発達において大きな役割を果たすことになる。また、ここから「見守る」という発想が生まれてくる。

 ②文化主義的発達理論
  ①とは逆に、この理論では、生得的ではなく生後に獲得したもの、つまり、獲得的なものが重要視される。つまり、人類が築き上げてきた文化を習得することが発達であるという考え方である。そこでは教育の役割が最大限に大きくなる。

 ③輻輳(ふくそう)的発達理論
    輻輳とはもともと「物が1か所にこみあうこと」(広辞苑第6版)という意味であるが、発達理論の場合の意味は、①と②とが、つまり自然的なものと文化・歴史的なものとが、両方とも発達に作用することを表している。
 しかし、この輻輳理論は具体的には多様な種類がある。たとえば、[イ]子どもの発達はある年齢までは①によって理解でき、その年齢以降は②によって理解できるという具合に、年齢によって区分する考え方がある。これは、自然的な発達がある年齢を超えると直接的・直線的に文化的な発達になることを意味している。
   [ロ]人間の発達には遺伝の影響が何%をしめ、環境の影響が何%をしめる、という具合に、受動的な捉え方もある。
 [ハ]ヴィゴツキーの発達理論は、大きく分ければ、輻輳的発達理論のなかに含まれるが、人間を受動的ではなく能動的な存在と捉え([ロ]との違い)、また、自然的発達と文化的発達のつながりを直接的・直線的には捉えていない([イ]との違い)。ヴィゴツキーが着目するのは、自然的なものと文化・歴史的なものとの「対立、衝突、闘争」である。私自身の特徴づけで言えば、両者の「せめぎ合い」こそ彼の着眼点である。
 それを明瞭に示す事実をいくつか挙げることができる。そのわかりやすい事例はことばの初期発達であろう。たとえば、ありとあらゆる音を発するゼロ歳児の「喃語」(自然的な音声で普通の語とは違って意味を持たない)は一旦すべてが失われて、その後、きわめて貧しい音しか示さない「初語」(たとえば、マーマーとかブーブーとかの。しかし、これはすでに文化・歴史的なもの——その土地の方言的な意味をもった音である)。さらに、初語における意味の般化と分化、初語における単語と文(1語文)、2歳代の文法習得、4・5歳児頃に顕著に見られる独特な造語、等々。

 〔覚書:自然的発達から文化的発達への「跳躍」、そこに教育の役割がある。直線的ではなく跳躍、教育を通した跳躍。——これについては後述。また、本日と次回に述べる予定の「インターとイントラ」「心理システム」「心理機能の発達と崩壊」「人間発達の地層理論」の根底には《自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」》がある。〕

II インター【間】とイントラ【内】

#思考、情動、意志などの心理機能のそれぞれについて、低次心理機能と高次心理機能とを区別して捉えること(たとえば思考における低次機能と高次機能を捉えること)は、ヴィゴツキーの独創的な見方である。やや大まかに事例を上げるなら、「あそこで男の人が長い棒を振り回している」という見方は見たままの、ある意味では、低次な見方であるが、同じ場面を「あそこで庭師が掃除している」と見るのが高次な見方である。やや一般的に言えば、高次心理機能は言語による意味や自己意識に媒介された心理機能である。

◯高次心理機能の起源(どこから生まれてくるのか)に関して――ヴィゴツキーは次のように述べている。「高次心理諸機能のあいだの関係は、以前には、人々のあいだの現実的関係であった。人々が私に関係するように、私は自己に関係する。熟慮——口論(ボールドウィン、ピアジェ);思考——ことば(自己との会話)」(1929年ノート「人間の具体心理学」、p.1021、邦訳『ヴィゴツキー心理学論集』p.240)。

 これを解説しておこう。まず、人々のあいだの現実的関係があった(心理間機能、あるいは、人格間機能)。それが個人の中に移行した(心理内機能、あるいは、人格内機能)。これが高次心理機能である。具体的な事例によって考えてみると、人々が口論している、これを自分のなかで行うようになる、つまり、口論→熟慮である。ことばと思考も同様であり、人々の対話(他者との対話)→自己との対話→思考。これ以外にも、多くの高次心理機能はこのように解釈できる(たとえば意志など)。

※対話と思考(熟慮)の関係を解りやすく言うなら、次のようになる。——Aさんと私が話し合っている。すぐには返答できないような問題が出てきた。そこで話しが打ち切られた。私はその問題が気になって、自分のなかでAさんとの対話を再現し、それを更に先に進めた(内的対話そして熟慮)。このときの熟慮(思考)は、自分のなかでAさんと私の対話が続いているかのようである。このように、最初は現実の2人の関係が私の中に入り込む。これが内的対話であり、思考であり、熟慮である。

◯ヴィゴツキーの理論をもっぱら文化・歴史理論あるいは文化・歴史心理学と見なす捉え方からは、「インターとイントラ」は以上で終わってしまう。だが、注意深くヴィゴツキーを読んでみると、1929年ノート「人間の具体心理学」と1930年論文「心理システムについて」には、「インターとイントラ」の関係は「脳の機能」を絡めて論じられていることに、気づくのである。たとえば、

 「私が述べる・どの〔心理〕システムも、3つの段階を通過している。最初は、心理間〔インター・サイコロジカル〕の段階——私が指図し、あなたが実行する——、その後に、特別心理〔エクストラ・サイコロジカル〕の段階―—私は自分で自分に語るようになる―—、さらにその後に、心理内〔イントラ・サイコロジカル〕の段階―—外側から刺激される脳の2つの点は1つのシステムのなかで作用する傾向を持ち、皮質内の1点に転化する―—。」(「心理システムについて」1930年、ロシア語版6巻本著作集第1巻、p.130、邦訳『ヴィゴツキー心理学論集』、p.35)

 これを、ことばの使用に即して解りやすくすると、【インター・サイコロジカルの段階】は他者との対話、【エクストラ・サイコロジカルの段階】は独り言、【イントラ・サイコロジカルの段階】は内言〔独り言が成長して聞こえなくなったもの〕に該当する。そして、この【イントラ・サイコロジカルの段階】には、「外側から刺激される脳の2つの点は1つのシステムのなかで作用する傾向を持ち、皮質内の1点に転化する」と書かれている。最初の「2つの点」は他者の声と自己の声(独り言の)であり、それが1つのシステムのなかで働いて、大脳皮質の「1点」(おそらく内言を表している)に転化する、と述べているようである。

◯ここでは、「自然的なものと文化・歴史的なものとの関係」が「他者、自己、脳の関係」として述べられている。つまり、自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」はある時期で終わりというわけではなく、どこまでも続いていくことになる。

III 心理システム

◯自己意識が成立するまでの「心理システム」

 心理システムは、ヴィゴツキーの考え方によれば、13歳あたりを基準に、いわば、自己意識の成立を大まかな基準に、それ以前と以後では、システムのあり方はそうとう違いがでてくる。

《感覚機能と運動機能の「システム」》
 人間の心の始まりには、まだシステムとは呼べないが後に心理システムにつながっていくような複数の機能の独特な関係がある。それは感覚機能と運動機能が1つに混ざりあった混淆(こんこう)状態を意味している。
 【0歳児にとって顕著なもの——音への感受性。原初的な因果関係への感受性。3項関係。】これらによる実践がしだいに感覚を運動から切り離す準備をしていくが、その点で決定的な役割を果たすものはことばである。

《知覚と状況。状況拘束性とそこからの脱出》
 ところで、語(word)は「一般化する」という性質があるため、感覚を知覚に変化させていく。1歳児の感覚は、ことばの習得に関連して、知覚へと変化していく。感覚と知覚との違いを(感覚の1つである)視覚をもとに説明すると、視覚は見たままの色・形・大きさ、モノの配置をそのまま捉えているのだが、知覚は意味的知覚と呼ばれるように、意味(語)による一般化された感覚(視覚)である。2歳代にはまだ「状況拘束性」(視覚が運動を引き起こすこと)があるので、視覚と状況は一体化している【これも視覚と状況とのシステムと呼べるであろう】。
 状況拘束性はチンパンジーにも見られるものであり、それは「視覚の奴隷」とも特徴づけられるが、それに似たことが2歳児にも生じている。階段があれば登ってみようとし、鈴があれば振って音をならそうとする。そのときの子どもの行為は見たものに左右されているのである。子どもがそこから脱出するのは「見立て」や「ごっこ(役)」のある遊び(イメージの遊び)を通してのことである。

《自然的記憶と論理的(意味的)記憶》
 私たちのような記憶(そのうちの自然的記憶)は、3歳代の話しことばの体系の一応の獲得を迎える頃から、始まる。自然的記憶とは特に補助手段なしに覚えることのできる記憶であり、「記憶力が良い、悪い」と普通に言われるような記憶である。ところが、記憶すべきことが多くなり複雑になるにつれて、記憶のための補助手段が作られるようになる。指を数えて計算するというのは自然的なことであるが、人間の手・指との繋がりからローマ数字が生み出されるというのは文化的な計算であろう。歴史的に考えれば、記録のためにキープ(多様な紐の結び目)がつくられ、やがて文字がつくられたように、記憶は自然的記憶のみならず補助手段を用いた記憶(文化的記憶)に発達していく。
 その記憶の特徴としては、論理的(意味的)記憶と言うことができる。ある事柄をただ覚えるというのは直接的記憶と呼ばれ、「直観像記憶」もそのようなものである。これは幼いときに見られる記憶(たとえば、小学校低学年の子どもはトランプの「神経衰弱」では大人よりも強い)である。大人はそのような記憶を失い、物事に意味をみつけて記憶する。その極端な例は電話番号などの「語呂合わせ」による記憶である。
 ヴィゴツキーはこの点について興味深い指摘をしている。記憶は思考の影響を受けて自然的な記憶から論理的な記憶(「語呂合わせ」を含む)へと変化していくが、ところが論理的記憶にもとづく思考は現実的な思考ではない、と彼は述べている。ひとつのシステムが終わり、新しいシステムが誕生することを予感させているかのようである。

 ※以上のように、感覚と運動、感覚と状況、知覚と状況、記憶と思考というようなそれぞれのシステムが形成されながら、(ある意味では内側から)システムを掘り崩し、新しいシステムを築いていく。このように心理システムも固定的ではなく発達的なのである。

〇移行期(思春期)と自己意識の形成、それ以降の心理システム

※13歳頃に子どもは大きく変わる(13歳の危機)。ことばの面から捉えてみると、①6歳代に独り言が大きく減じていく(約半分に——ピアジェのデータ)なかで、(ヴィゴツキーの考察によれば)独り言と同じ機能(自己のためのことば)をもつ内言が成長してくる。内言とは自己に向けたことば、いわば「内なることば」であり、音声を失ったことばである。②その内言は最初は意識されないが、13歳の危機を越えると、意識されるようになる(自己意識の形成につれて)。いわば内言の意識化である。③誕生から続いている他者との会話・対話は、相手のことば・自分のことばを意識するにつれて、ことばは内言として蓄積されてくる。④こうして、他者との対話が自己との対話(内的対話)として継続され、そのように他者と交わるなかで自己を意識するようになる(自我および第2の自我の誕生)。⑤それ故に、自己の認識は、同時に、他者を理解すること(自己にとっての他者)を伴っている。⑥それとともに、自己の認識は、ただ客観的な世界だけではなく、自己にとっての世界をも認識するようになる。
 以上のうちで、④⑤⑥が自己意識の形成の内容を表している。いわば、ことばを軸にして、自己、他者、世界を内面化する(自己にとっての◯◯)、という内容である。

※意識と自己意識について。
 13歳の危機(分裂機能〔区別する機能〕の形成)と移行期(13-17歳)において自己意識が形成されるまでと、形成のあととでは、子どもの発達も心理システムも大いに異なっている。ルソーは15歳くらいの少年期について人間の「第2の誕生」と呼んだが、私は第1の誕生は意識の誕生、第2の誕生は自己意識の誕生であると考えたい。

 以上のような自己意識が一応のところ形成された後になると、心理システムは、一方では様々な心理機能のなかでシステム化が広がり、他方では、柔軟になるように思われる。その具体的事例を3つ、上げておこう。
 私たちは、表象(イメージ)とは何か、情動とは何か、思考とは何か、想像とは何か、という問題を考えるとき、それぞれバラバラに考えがちであるが、それらをつなげて考えるのが「心理システム」の捉え方である。

《表象(イメージ)と情動のシステム》
 20世紀を代表する演劇家の1人、スタニスラフスキーは、俳優の演技を内面的で適切な感情に彩られたものにするにはどうしたらよいかを考えた。彼が辿り着いた結論は次のものであった。まず、①作中人物のその場面での感情に類似した俳優自身の感情を表現することである。ところが、②およそ感情というものには「命じる」ことはできない、つまり、◯◯という感情よ、出てこい、などということは成り立たないのである。したがって、③残された手段は、自分自身の◯◯という感情がかつて生まれた状況を想像しイメージすること(表象すること)によって、その感情をおびき出すことである。
 この③が、表象と感情という異なる心理機能のあいだをシステム化すること、つまり、2つの心理機能の心理システムなのである。そう指摘したのはヴィゴツキーの卓見であった。

《思考と情動のシステム》
 思考と情動との関係は多様である。情動は思考をかき乱して思考の冷静さを失わせることもあれば、また、情動は思考の動機となり思考を情熱的にすることもある。思考の面から見てみると、思考が情動をうまく捉えられなくて情動の爆発が起こることもあれば、思考が情動に作用し、生存に直接に必要な情動(粗大情動)のみならず、文化的で芸術的な情動(繊細情動、あるいは、芸術的感動)を生み出すこともある。思考と情動は、システム化されるのである。

 ※情動と脳
 情動は、喜び・恐怖など生命の維持に直接にかかわるものであり、古い脳にその中枢をもつ(皮質下中枢)と言われる。情動はそのように皮質下中枢によってコントロールされるとともに、新しい脳(大脳皮質)によってもコントロールされる。
 たとえば、①外国の都市の地下鉄を降り、たまたま間違えて、いつもとは違う出口から地上に出たとき、いつもとは違う(予想とは違う)光景を眼にして、言いしれぬ恐怖を味わうことがある。「ここはどこなのか」と。②しばらく辺りを見回して、見慣れたビルを違う角度から見ていることに気づき、出口を間違えたことを悟る。
 ①は原始的な低次の情動を味わっていることを意味するが、②はそれよりも高次の情動を示している。このように、情動は新旧の脳による二重のコントロールを受けていることがわかる。ここから、脳内には階層やシステムが構成されていると仮説を設けることができるであろう。

《思考、情動、想像のシステム》
 この3つの心理機能について、ヴィゴツキーは以下のような3種類のシステムを上げている。これはすでに大人の心理システムである。
★現実的思考 思考→想像→情動 〔とりあえず事柄を捉える思考。それが想像と結びつくことによってその事柄が他の諸事物との様々な関係のなかで捉えられるようになり、おおよそ、それが完了するとき「わかった」と満足が得られる。〕
★自閉的思考 想像→情動→思考 〔主観的な情動に左右される自閉的思考は想像から始まる。その想像が情動に左右されて、それが情動に彩られた思考となる。芸術家的な心理システムもこのようなものであろう。〕
★創造的(発明的)思考 想像→思考→情動 〔発明家が作図をしようとしているときを思い浮かべてみると、この創造的思考もまた想像から始まるが、その想像を具体化するために思考が影響を与える。これによって新しいものが生まれ、満足が得られる。〕

※カフィール人の夢
  19世紀の人類学者であるレヴィ−ブリュルは、アフリカに派遣された宣教師の記録を考察し、次のようなエピソードを紹介している。——この宣教師は、未開人であるカフィール人の族長に対して、息子をミッションスクールに入学させるように依頼した。この族長は、それについては、夢で見てみることにしましょう、と答えたのである。
 ヴィゴツキーはこのエピソードについて、現代人であれば、たいてい判断するために考えることをするのであり、思考による判断なのであるが、この族長は、思考の位置に夢を持ってきて、夢による判断としたのである。いわば、夢の心理システムである。現代人でも、占いに頼る場合には、このようなシステムと同じようなものである。

【次回の講義では、今回の続きとして、〔IV 発達と崩壊〕〔V 発達の地層理論〕〔IV 自然的発達と文化的発達の教育学〕について考えたい。】

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