〔2020/05/25〕第6回 人間的自然③ 共同注意フレーム(3項関係)

〔2020/05/25〕第6回 人間的自然③ 共同注意フレーム(3項関係)


《お知らせ》(再録)

◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、

https://kyouikugenron2020.blogspot.com/

に掲載します。授業の折には、このブログにタブレットやスマホでアクセスするか、それよりも望ましいことですが、事前にパソコンから印刷してください。

◯授業終了後に皆さんのコメントをメールで送付してください。
 送付先のメールアドレス、締切、送信上の留意点は以下の通りです。

bukkyo.bukkyo2017@gmail.com

 編集の都合上、水曜日の18時までに送信してください。
 「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。
 また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。
 なお内容的には、①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、②それについての従来の自分の考え、③自分にとっての「新しさ」の理由、を含んでいるのが望ましいと考えられます。
 あるいは、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。

《みちくさ》
 「瑠璃色の地球」をテレワークで歌う上白石萌音さん
https://youtu.be/JMhtD5Q-Isc


《第4回講義への受講者のコメントより》

【文法を操るシジュウカラ】
 今回初めて知った事実は、シジュウカラによる文法理解です。類人猿であり、容姿もどことなく人間に近いところがあるチンパンジーが単語を理解できることは、遺伝的に人間と近いという点からも想像しやすい部分がありました。そんななか、鳥類であるシジュウカラが、チンパンジーでも為し得なかった単語の次の段階である文法の理解をみせたことは、大変驚きました。しかし、人間やチンパンジーのような哺乳類と鳥類の間に遺伝的な共通点をあまり耳にしたことがないため、驚きと同時に疑問も抱きました。それは、どうしてシジュウカラは文法を理解できる必要があったのか、言い換えれば、何のためにシジュウカラは文法を理解する能力を備えているのか、ということです。
 〔進化論的に考えると、シジュウカラと人間とのあいだには、おそらく「共通の祖先」があり、そこに文法を操るという要素があったのでしょう。〕

【記号とシンタックスという限界】
 今回の授業では人間の固有性について考えた。チンパンジーは実験的条件においては記号の要素は理解できる。しかし、実際の色→色名、色名→実際の色のそれぞれは理解できても両者は繋がっていないと考える。そして、語の意味は理解できても文の構成には進めない、つまり、シンタックスが形成されない。人間の子どもは初語の段階で類人猿の持っているこの二つの限界を簡単に超えている。
 人間の子どもも類人猿と同じく言語について初めは全てゼロから始まるものだと考えていたが、初語から文の構成ができることを知り驚いた。そして、これらの事実が証明されたことによって人間の子どもと類人猿との比較を通して類人猿研究は貢献していることを発見した。
 〔人間と類人猿は進化樹において隣に位置していますので、類人猿は自分たちのことを教えるのみならず「人間の固有性」をも教えてくれます。そうした見方から多くの知見が得られるでしょう。〕

【3項関係がもたらすもの】
 第5回目の授業で新たに発見した点は、人間の三項関係についてです。アメリカの認知心理学者トマセロはなぜ、初語が誕生するのかと問題を立てました。そこで、大人と子どもとの共同注意フレームなどを見つけました。その共同注意フレームこそ三項関係を表しており、子どもと大人がものに対して共同で注意をはらうこと、いわば、自分ー大人ーモノという3つの項目から成る関係が成立しているというものです。
 私はこれまでは、人間の子どもも自分とモノだけでの関係だと思っていました。そして、単に自分とモノしか見ていなくて、そのふたつで関係は成立しているのかなと思っていました。しかし、大人と一緒になってモノを見たりし、注意を向けることで、関係が成り立ち、初語に繋がることが分かりました。確かに考えてみると人間の子どもは大人の行動もよく見ているし、大人を真似したりすることもある為、繋がっているのかなと思いました。その事は比較研究で、人間の子どもはモノと大人の両方を見ていることからも明らかでした。
 しかしこの三項関係も、過度に他者の評価を気にする傾向があるなど裏目に出ることも多くあることが理解できました。何事も良いことや表側だけをみるのではなく、裏側にも目を向けて見ることは大切であると思います。この三項関係が裏目に出ることについても、詳しく学びたいと思いました。

 第五回の授業より、3項関係という言葉を知り、その意味を理解することができた。アイトラッカーを用いた実験で、チンパンジーと人間の子どもとでは見ている視点が異なることがわかった。チンパンジーも人間の子どもも視野の広さは同じぐらいだから、見ている視点は同じだと思っていたが、異なることに驚いた。その違いから、2項関係と3項関係がわかり、両者の「大人と子どもの関係」が異なっていることが実験からよくわかった。また子どもの視点にあわせ、親は教育し、子どもはそれにより発達していくということがわかる。そこから親が子どもの目を見ながら、話しかけたり、会話をすることが発達上必要になってくることがわかった。
 また人間は3項関係だからこそ、他人からの評価を気にしたり、他人の目を気にする傾向があるとわかり面白みを感じた。2項関係のチンパンジーはそれらのことを気にしていないかわからないが、とても興味深いと思った。

 〔ごく抽象的に言えば、3項関係は人間に、自由と不自由の双方をもたらすように思われます。自分と事物のあいだに他者が入り込むことによって、知の進歩がもたらされ、それによって人間の持つ自由は確実に増大してきたと言えましょう。だが同時に、周りの評価を気にすることによって、どれだけ不自由を味わってきたことでしょう。それを抑制するために、人間の内面的なもの——思想・信条、良心、宗教によって、また、性によって、また、民族的出自、その他によって、差別してはならない、という近代民主主義思想は今日でも意味をもっています。より積極的に言えば、多様性の相互尊重ということが3項関係のマイナス面を補うものと考えられましょう。〕

【一般化について】
 言葉はさまざまな機能を持っており、言葉を構造的な面から捉えると言葉の形相的側面や言葉の意味的側面で区別することができる。その中でも意味的側面に深く関わってくるのが記号や一般化であることがわかった。そして、その記号は眼の前にない事物をあらわす別のものを指しているものであり、記号は一般化という性質を持っているということを新たに知った。以前までは、言葉と記号は別のものだと考えていたが、コミュニケーションが成り立つのはその手段である言葉・記号が一般化という性質があるからだと理解できた。
 〔「一般化」は、コミュニケーションにとって不可欠であるとともに思考にとっても不可欠なものですね。ことばに即して言えば、これは語義の問題ですが、同時に考えるべきは、「語義」がグループ的、個人的に変形されていく「意味」についてです。これについては、本講義の最後の方で触れることにしましょう。〕

 チンパンジーの研究を通して、人間の子どもがいかに発達においてチンパンジーを超えているのかを理解することができた。その中でも一般化という性質がとても印象的だった。なぜなら、ごっこ遊びで小石を「お菓子」に見立てて遊ぶ時、子どもたち同士で小石を一般化することによってコミュニケーションが成り立っているのではないかと考え、それまでの状況拘束性からの解放と一般化によって子どもの言語使用が増えていき言語の発達につながっていっているのではないかと考えることができたからである。また、一般化は思考と結びつきが強いということも印象的だった。ある現象がどう生まれ、成長し、消滅していくのかを考えていくうちに他のものに対する思考が生まれ無限に広がっていくということが、想像力にもつながるのではないかと思った。
 ごっこ遊びにおいては子どもたち自身が主体的に行う遊びであるため、一般化するものも子どもたち自身が決めているのではないかと私の中で考えることができ、最後の文でも書いてあるように大人に教えられるまま、大人の教育の結果だけで子どもが成長しているのではないという考え方に納得できた。そして、主体的に子どもたちが動くことができる環境づくりがやはり重要になるのではないかと思った。
 〔一般化を広く捉えてみると、主観性の濃い一般化と客観性の強い一般化との違いをあげることができるでしょう。ピアジェは前者の働きをなすものをシンボル、後者を記号と区別することさえしました。これを哲学的に表現すると「悟性」と「理性」、論理学的に表現すると「形式論理」と「弁証法的論理」、ことばの問題として表現すると「意味」と「語義」になります。本講義では最後の問題は扱う予定です。〕

【言語習得はなぜ可能なのか?】
 第5回の授業を通して、チンパンジーと人間の2歳児の子どもは類似しているが、全く違う脳を持っているということが分かった。その理由は、人間の子どもは3項関係が成立しているが、チンパンジーは2項関係にとどまっているからである。それは、アイトラッカーを使用した実験結果から理解できる。大人の女性がコップにジュースを入れる実験で、チンパンジーはコップを見ていたことに対して、人間の子どもはコップと女性を見ていた。このことから、チンパンジーは2項関係、人間の子どもは3項関係を成立させていることが分かる。そして、人間は3項関係によって、教育を引き出し、知性を発達させてきたことが分かる。また、言語における類人猿の限界では、チンパンジーは実際の色→色名、色名→実際の色のそれぞれの理解はできるものの、そのつながりを理解することはできなかった。しかし、人間の子どもはつながりを理解することができる。これは、人間の子どもが類人猿の限界を軽々と超えているということである。また、人間の子どもの初声は大人の教育だけでなく、大人の言葉を聞いて子どもが主体的に語の意味を明確化していると考えられる。このようなことから人間は言語の習得が可能なのではないかと思った。

 今回の授業で新たに発見した事実は、言語の習得についてです。
 私は、人間が言語を習得することについて、何も特別には感じていませんでした。何か原因がある場合を除き、言語は当たり前に備わっているとしか考えませんでした。しかし、類人猿の実験について見ると、その当たり前だと思っていたことが教育をしていても困難だということがわかりました。人間により言語の教育を受けているチンパンジーより、そのような集中的な教育を受けていない子どもの方が、言語を習得しています。人間にとっての言語は他の動物にとっての本能のようなものかと思いました。例えば、犬が赤ちゃんを産む時、毛布の上でも穴を掘るような仕草をします。これは外敵から見つからないようにするという本能があるからです。人間は言語の習得なしに生存することができなかったとわかりました。よって本能的に言語を身につけていると考えます。

 〔人間の言語習得の必要性については種としての生存のためというのがもっともシンプルな解答でしょう。では、言語習得はなぜ可能なのか、という問いは、様々な観点からアプローチされています。生得的な本能という解答に近いもの(たとえばチョムスキー)、また、本能的というよりは共同注意フレームや意図理解が示すような、社会的なものという解答、さらにヴィゴツキーのように、自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」という解答があります。私自身はヴィゴツキーの考えに近いのですが、これらについては、後の講義のなかで述べることにしましょう。〕

【1語文について】
 子どもは類人猿の限界を軽々と超えていくというところについて、チンパンジーが半記号の理解にとどまり、それも人間によるチンパンジーの意識的教育の賜物であって決して自発的に要素のある人間の子どもの習得のようでないから語の意味形成をめぐる限界があること。不完全性はあるものの語の意味は理解できるが、文の構成には進めない、単語主義であって文の構成に進めないという限界があることを初めて知った。それはシンタックスを勉強して初めて理解できたからである。確かに日本人は文と文の間に格助詞があって誰がどうしたのかというのがわかるがそれがなければ単語と単語だけになり、意味がとりづらかったり、違った意味で捉えられてしまうからであると思ったからだ。
 ここで疑問に思ったことがあります。
 人間の子どもは初語において文の構成を行なっており、類人猿を超えていると書かれていますが、例えば話し始め、ことばを覚えはじめの子どもは「ブーブ はやい」や「ワンワン 大きい」など単語を繰り返していう時期があると思うのですが、これが文を構成しているということなのかということです。
 子どもは大人の教育だけでなく子どもが主体的にことばを聞いて後の意味を明確化するということをしているのに驚いたし、すごいと思った。
 〔1語文は具体的にはどのようなものでしょうか? たとえば、「ワンワン」という1語のことばですが、その視線やしくさから「ワンワン、いっちゃった」「わんわん、かわいい」「ワンワン、いない」などの意味が推測できる場合があります。1語なのに文を表している。これが1語文です。これも《自分-大人-犬》という3項関係のなかで、1語が1文になったと考えるべきでしょう。〕


《第6回講義メモ》

はじめに 3項関係について前回の講義で述べたこと

◯アイトラッカーによる実験(2項関係と3項関係)
 アイトラッカーによる実験結果は極めて説得力があるものだが、チンパンジーは《自分―モノ》という2項関係、人間の子どもは《自分―大人―モノ》という3項関係を特徴としている。人間の子どもは、大人の顔と大人が扱っているモノ(そして扱い方)を交互に見ている。これがチンパンジーにはないのである。したがって、「人間の大人は自分にも注がれる視線に応えて、様々に教えようとする。ある意味では、子どもが持つ3項関係が教育を引き出し、そのことによって、人間は知性を発達させてきた、と推論することができるであろう。」(3項関係の成立は、他者の評価を過度に気にする傾向を生み出すもとともなる、という負の側面も見逃してはならない。)

◯トマセロの「共同注意フレーム」
 この3項関係と類縁性を持つものは、トマセロの言う「共同注意フレーム」である。トマセロは、9〜12か月頃に誕生するこの「共同注意フレーム」、相手の「意図理解」(「心の理論」)、模倣による「文化学習」が言語習得のおおもとにある、と考えている。このことの是非は、今後の課題となる。

◯今回は、共同注意フレームや3項関係について、前回よりも詳しく述べておきたい。まず、乳児の発達のなかで、共同注意フレーム(3項関係)がどのように準備され、現れてくるかを述べよう。次に、より大きな子どもと大人、大人同士のなかで行われる対話のなかでも共同注意は出発点に位置していることを述べ、さらに、言語習得についてのトマセロの考え方を考察することにしよう。


I 乳児の生活様式、指差し(指示的身ぶり)について——ヴィゴツキー

 トマセロの言う「共同注意フレーム」は、乳児(ゼロ歳児)の行動の発達のなかに自然に含まれてくる。この時期の行動発達について、大まかに述べておこう。

【乳児の、大人を介しての行為】

〔泣き声の役割〕新生児(生後1か月くらいまで)はしばしば泣き声をあげ、そして大人の働きかけによって泣きやむ。経験的にも言えることは、(1)授乳、(2)おむつの取り換え、(3)揺すって寝かしつける、という働きかけによって大部分が泣きやむのであり、そこから、新生児が泣くのは、空腹を知らせる、排泄によって気持ちが悪いことを知らせる、眠いのに眠れないことを知らせる、などと考えられ、そうした役割を、新生児の泣き声が担っていることが判る。新生児のみならず乳児が泣く理由の多くもこの三つの要因が大きい。ことばの機能のひとつ(伝達)と似たような機能を泣き声は担っていると言える。
 だが、「共同注意フレーム」の観点から言えば、これは、大人の注意を自分に引き寄せるというもので、3項関係とは言えない。

〔生理的微笑と社会的微笑〕新生児〔おおよそ1か月未満の子ども〕が眠っているとき、ときどき、笑っているような顔をすることがある。これは生理的微笑と呼ばれる現象で、子ども自身の身体的な快状態(そのために思わず頬の筋肉がゆるむ)を表している〔大人の(誤解)の重要性〕。それとまったく違う微笑は生後1~2か月の間に生まれる。人の顔を見て、それに微笑みかけるという微笑であり、社会的微笑と呼ばれる。これをもって新生児期は終わり、乳児期が始まる。
 社会的微笑は最初は特定の人たちに対してではなく見ず知らずの人たちに対しても微笑むという特徴を持つが、やがて、特定の人たち(自分のよく知っている人たち)に対してのみ微笑み、よく知らない人たちには「人見知り」をして号泣するようになる。上で述べた泣き声は生理的要求に基づいていたが、この人見知りによる泣き声は明らかに心理的要因によるものであり、ここに大人にまで続く人間的な「涙」が始まる。
 「共同注意フレーム」の観点から言えば、この特定の人たちへの社会的微笑も、自分の注意をその人たちに向けるとともに、その人たちの注意を自分に引き寄せるものであり、自分とその特定の他者たちのあいだでの相互注意ということであり、ここでもまだ3項関係は成立していない。

〔乳児の生活の様式としての「大人を介しての行為」〕乳児の生活の独自性はどこにあるのか。ヴィゴツキーはきわめて興味深い考え方を提起している。乳児は生活のあらゆる点において「大人を介して」行為している。大人を介することなしには一日たりとも生きていくことはできない(それは、上述したように食、排泄、着替え等の基本的生活、さらに、情緒的な安定など心理的な問題にも及ぶ)。この意味で乳児は決して非社会的存在ではなく、すべてにおいて他者に依存しているという意味で最大限に社会的な存在である。ところが、社会的存在には不可欠であるコミュニケーションの最大の手段であることばがまだ欠落している。ある意味では最大限の社会的存在でありながら最小限のコミュニケーション手段しか持ち合わせていない。ここに乳児の生活のもっとも基本的な矛盾がある。ヴィゴツキーはおおむねこのように乳児の生活の独自性を捉えている。
 この「大人を介しての行為」の一部に「共同注意フレーム」が誕生する。それについては「指差し(指示的身ぶり)」を参照のこと。

〔死活問題としての表情・身ぶり〕したがって、乳児は非言語的なもの、「泣き声、微笑み、指差しのような身ぶり、表情など」のすべてを動員して大人とコミュニケーションをはかろうとする。それらに託されたものを大人が読み取って実現していくことは、乳児にとって死活問題と言ってよいようなものである(ヴィゴツキー「乳児期」)。

【初語の先駆けとしての指差しについて】

 ヴィゴツキーは、初語〔対象のある音〕の先駆けであるのは、対象のある行為である、と考えた。この行為とは、端的にいえば、指示的身ぶり(指差し)のことである。この指示的身ぶりについて、ヴィゴツキーの指摘する、指示的身ぶり(指差し)の3段階がその生成・成立を考えるうえで大いに参考になる。すなわち、
 ①対象に向けられているが不首尾に終わった把握の(モノをつかもうとする)動作
 ②母親によってなされる、その動作を指示と理解する意味づけ(たとえば、把握しようとする手の先を見て「あっ、◯◯が欲しいのね」と言って、その対象を取ってやる)
 ③子どもは指示的身ぶり(指差し)を行うようになる
という3つの順次的段階を通過して成立する。

 ①のモメントは、一方ではモノをつかむという大人の模倣でもあるが、他方では子ども自身の欲求(そのモノを触ってみたい、間近に見たい)にもとづいており、自然的要素が強くうかがわれる。
 ②のモメントは、子どもの行為の、大人による意味づけである(子どもと大人との共同的モメント)。
 ③のモメントは、すでに子ども自身による指示的身ぶり(指差し)である。
 これらを全体として見れば、「あっ、あっ」と言って、モノを指差せば、そのモノが自分のところに届けられるとか、大人のことばが返ってきたりするとかの、経験を子どもはする。

 ②のモメントは意味形成に直接的にかかわる点であるが、指差しが即自的には欲求を満たそうとする行為から始まっている点(①のモメント)、理解語(語について発音はできないが理解はできる状態を指している)も指差しも行為によって応えている点に、着目しておきたい。行為はことばの先行者である。
 ②と③のモメントが「共同注意フレーム」のなかで生じている。


II おしゃべりと対話について

 より大きな子ども、さらには大人同士においても、共同注意は成り立っている。それは、対話というものがよく表している。

【事物(事実、状態)についての2人の対話】
 たとえば、2人が眼の前にあるリンゴについて他の人に話しかける。他の人がそれについて応答する。そこでは、《私—他者—リンゴ》という3項関係が成り立っている。これも「共同注意フレーム」である。ただし、このフレームはたんに出発点を示しているにすぎない。

【ことばと意味】
 共同注意フレームを出発点とするという点では同じだが、たんなる「おしゃべり」と「対話」とでは意味合いが違ってくる。対話をどう捉えるのかによって、①あらゆる種類の話し合いを「対話」と捉える見方もあれば、②「会話」と「対話」とを区別して捉える見方もあれば、③複数の人間のあいだにおける「発話と応答」を広く「会話」とし、その「会話」のなかで新しい考え(アイディア)・意味・ことばが生まれてくるものを「対話」とし、そうでないものを「おしゃべり」とする、という見方もある。
 私は③の見方がいちばん実際に合っていると考えている。「おしゃべり」も「対話」も、どちらも「発話と応答」の繰り返しである点は変わらない。両者を区分けするものは、新しい考え・意味・ことばが生み出されているかどうか、である。

【対話者たちの内面で起こること】
 新しい考え・意味・ことばが生み出されるとき、対話している人たちの内面では何が起こっているのであろうか?
 1つの実際にあった事例をもとに考えてみよう。

 ある朝、大学に行くバス停でのことである。そこでたまたま私は同僚と出会い、あいさつを交わしていたが、この同僚は急に質問を投げかけてきた。
 「ご存知のように、日本語の『自由』は英語ではフリーダム(freedom)、リバティ(liberty)の2つの語で表される。ところで、神谷君がやっているロシア語ではこのあたりはどうなっているのかlibertéな?」
 私——「ロシア語で自由を表す語はスヴァボーダ(свобода)ですが、正確を期すために辞書で調べておきましょう」と答えて、その日の夜、辞書を引いてみた。
 英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語で「自由」の語を調べてみると、①英語においては、フリーダムは12世紀以前から使われていた古英語であること、他方、リバティは14世紀にラテン語liberatemから転用されたものであること、②ロシア語のスヴァボーダは、英語のフリーダム、リバティのどちらの意味をも持っている、③フランス語のリベルテliberté④ドイツ語のフライハイトFreiheitも、英語のフリーダムとリバティの両方の意味を持っている、とある。②〜④は露英、仏英、独英の各辞典による。また、広辞苑(第6版)の「自由」の項目にも、英語のフリーダム、リバティの2語に相当すると書かれている。
 翌日の朝、同じくバス停にて、以上のことを伝えた。同僚は一瞬黙っていたが、「英語に比べたら日本語の「自由」は曖昧だと思っていた」と答えられた。言外に、英語以外の外国語も「自由」を表す2種類の語があり、それに対して、日本語は相当に曖昧なことばだ、という考えが込められているようだった。
 私――「しかし、紹介した5つの言語のうちで、『自由』の意味を持つ2種類の語をもつのは英語だけなので、英語はむしろ特殊ということになりますね。」
 私が言いたいことは、どの言語が厳密な意味をもっていて、どの言語が曖昧な意味しかもっていない、とは言えないのであって、およそ、ことばには数学的な厳密さはなく、むしろ曖昧なところに意味がある、ということであった。
 だが、この対話で重要なことは、私も同僚も、予期していなかった新しい考えが生み出されたということである。日本語のことばを英語のことばと比較するだけでは不十分だということは、私も同僚も、この対話を通して気づいたことであろう。
 
 私のなかで起きたことを振り返ってみよう。それは何種類もの思考である。
 ①同僚はなぜ、そのような質問をしたのか、その動機はなにか、という考察。英語に比べて日本語は曖昧な言語だ、という言語観から質問が生まれているのではないか。
 ②辞書を調べるなかで、自由を意味する語が2つあるのは英語だけであることを「発見」。これは事実的思考である。
 ③この点では、むしろ英語が特殊な言語であり、他の諸言語は一般的だと考えられる。これは論理的思考である。
 ④言語学とはもともと比較言語学から始まった、とは、こうしたことも含むのかもしれない、と思索。「祖語」と現代の諸言語、たとえば、ラテン語とフランス語・イタリア語・スペイン語など、という具合に、比較可能である。こういうところから言語学は始まった。

 以上は私自身の私的事例である。だが、このような内的思考があって対話が新しいものを生み出すと考えるべきであろう。

 なお、フリーダムは絶対的自由というような意味合いが強く(たとえば、アカデミック・フリーダム〔学問の自由〕)、リバティは拘束や抑圧からの解放という意味合いが強い(たとえば、「自由の女神」とは大文字のリバティ)。前者が無前提な自由であるのに対して、後者は拘束・抑圧を暗に前提にしてそこから脱却した自由である。
 分かりやすく言えば、フリーとは「無料」という意味もある。ある品物が無料であるなら、経済状況がどうれあれ、万人がそれを手に入れることができる。これが絶対的自由の1種類である。
 100円の品物について皆が「値下げを」の声をあげて、どうにか50円になった。品物が2倍購入できるわけだから自由が増大した。これがリバティであろう。しかし、それでも購入できない人がいるので、この自由はまだ絶対的なものではない。
 このように考えると、フリーダムとリバティとの違いがわかりやすいかも知れない。日本語の「自由」はこの2つを含んでいるが、それを曖昧だと言うのではなく、そもそもことばはそうした曖昧さがあるものなので、たえず意味を狭めたり深めたりすることが必要であること(これは何語に限らず)を自覚すべきであろう。


III 3項関係と言語習得

【共同注意フレーム、意図理解、文化的学習】

 トマセロは、すでに述べたように、9〜12か月のあいだに成立する共同注意フレーム、相手の意図理解、大人との交わり(交通、コミュニケーション)のなかでの文化的学習という3つの形成を通して、言語習得が開始される、と考えている。
 ①共同注意フレームとは、ある対象(事物、モノ)に対して、子どもが大人に注意を向けさせる、また逆に、大人が子どもに注意を向けさせる、という枠組のことである。つまり、《私―他者―対象》という3項関係が成立することであった。
 ②ここから、相手の意図の理解ということが可能になってくる。相手の注意をある対象に向けさせる、あるいは、相手によってある対象に自分の注意を向けさせられる、ということは、相手の意図や自分の意図を理解する・理解させるということを、伴ってくる。
 ③これらを基礎にして、大人との交わりのなかで行われる文化的学習は、一方では、ことばのより小さな部分(語、形態素、句など)を取り出すことを促し、他方では、ことばのなかに「パターンの発見」(これが文法習得につながる)を可能にする。

 以上のうち、①と②は生得的なもの・自然的なものを起点にして文化・社会的なものをそこに取り込むのであるが、③は純粋に文化・歴史的なものである、とトマセロは考えている。(トマセロ『ことばをつくる』辻幸夫他訳、慶応義塾大学出版会、2008年、第2章「言語の起源」参照)

【自閉症児の言語習得をトマセロ理論は説明できるのか】
 トマセロ理論の観点からは、自閉症児の言語習得をどのように捉えたらよいかは、簡単に回答できない。
 なぜなら、トマセロが取り上げている・言語習得にとって極めて重要になる・3つの点は、すべて、自閉症児にとっては困難を伴うものであるからだ。自閉症は、今日では自閉スペクトラム症と呼ばれるようになり、自閉症・自閉的傾向のある個々人がスペクトラム(連続体)のように違いがあるので、一概には言えないが、大きく言えば、対人関係などの社会性の障害である。
 きわめて興味深いことには、自閉症児は方言を話さない傾向をもち、むしろ、共通語を話すことが明らかにされている(松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない』福村出版、2017年)。
 これも、すべての自閉症児にあてはまるるとはいえないが、アスぶペルガー症候群(自閉症のサブカテゴリーの1つ)の東田直樹君のような人は、会話は流暢ではないとはいえ、書きことばは豊かでなのである(東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』エスコアール出版部、2010年)。


おわりに

 トマセロの理論は、他の動物との違いのうえに、人間の言語習得を考える、という点で、きわめて興味深いものである。私の見方では、彼の理論は完成されたものではなく、変形や発展を必要としている。それは、やはり、自閉症児の言語習得をうまく説明できないからであり、自閉症児の研究という観点から、トマセロ理論を変革することによって、より豊かな言語理論、言語習得論を手に入れることができるのではないか、と思われる。
 そのときに、ヴィゴツキーの《自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」》という観点は、問題を整理するうえで、重要となるであろう。

【自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」の観点】

 ここではこの観点を掘り下げることはしないが(後の講義で自閉症を扱うときに掘り下げてみたい)、少なくとも次のような点を深めてみる必要があろう。
    ①音〔感覚レベル〕視覚と聴覚を絡めることと、その上に立った聴覚模倣、音による意味の識別(オームとの違い)。乳児でも、自分の名前を呼ばれるとその声の方を見る。
    ②規則性〔最初は運動レベルでの〕関連性(規則性)への志向(知と情)。 事例としては次のものが挙げられる。ガラガラ〔ガラガラを振れば必ず同じ音が返ってくる〕、ティッシュペーパーの箱も1枚取ると次の1枚が出てくる。
    ③社会性〔社会性〕泣き声や笑顔によって大人を使う(「大人を介した行為」ヴィゴツキー)、そして3項関係〔子ども本人––モノ––そのモノを使う大人(他者)〕の成立〔トマセロのいう「9か月革命」=3項関係。大まかに言えば、チンパンジーにおいては本人––モノの2項関係〕
 ※これらすべてが意味とかかわってくる。音による意味の識別、規則性による文法〔文の構成による意味の正確化〕、意味のやりとり。
 この3つの点は、言語習得のための自然的なものについての、私自身の仮説である。


《今回のおすすめ本》
◯松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない』福村出版、2017年。
◯東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』エスコアール出版部、2010年。

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