〔2020/05/18〕第5回 人間的自然② 記号と統語論

〔2020/05/18〕第5回 人間的自然② 記号と統語論

《お知らせ》(再録)
◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、

https://kyouikugenron2020.blogspot.com/

に掲載します。授業の折には、このブログにタブレットやスマホでアクセスするか、それよりも望ましいことですが、事前にパソコンから印刷してください。

◯授業終了後に皆さんのコメントをメールで送付してください。
 送付先のメールアドレス、締切、送信上の留意点は以下の通りです。

bukkyo.bukkyo2017@gmail.com

 編集の都合上、水曜日の18時までに送信してください。
 「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。
 また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。
 なお内容的には、①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、②それについての従来の自分の考え、③自分にとっての「新しさ」の理由、を含んでいるのが望ましいと考えられます。
 あるいは、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。

《みちくさ》
イタリア北部のビルの屋上で、病院の入院患者や医療従事者に向けて演奏する日本人女性バイオリニスト
https://www.youtube.com/watch?v=B0dDDztA6RE

《第4回講義への受講者のコメントより》

【他と動物との区別の基準:思考とことばの結びつき】
 今回の授業で新たに発見した事実は、人間と他の動物を区別する明確な基準が思考と言語の結びつきであることです。
 私は今まで、この2つの違いは言葉を持っているかではないかと考えていました。「話すのは人間だけだ」と思っていました。しかし、ヤーキーズの研究で、私たちが言葉とわからないような音でも、その音でコミュニケーションをとっている動物もおり、それは確かに「言葉」と言えるとわかりました。人間でも、国によって言葉が違うように、動物たちも人間とは違う様々な種類の言葉を持っていても不思議ではないと考えられます。しかしその言葉は、論理的な思考を伴っているものではなく、ただ情動的なものであるという違いがあることから、人間と他の動物を区別するものは言葉なのではなく、思考と言語の結びつきであるということがわかりました。

【「ごっこ(役)」遊びの意義、あるいは、3歳の位置づけ】
 第4回目の授業で私が新たに発見した点は、子どものごっこ遊びは子どもが階段を見れば駆け上がりたくなったりするいわば視覚に支配された状況から、すでに抜けだしているということです。このことは、子どもは見ているものに違う意味を与え、、その意味に基づいて行動するからです。例えば、公園にある小石がお菓子になったり、○○ちゃんがお母さんになったりすることです。
 このように状況拘束性からの脱出やごっこ遊びの成立を 発達的に可能にするものとして独り言という新しいタイプの言葉が登場し自我の芽生えが起こったということが分かりました。そして、それらのことは無意識のうちに実現されるようです。
 これまで私は、ごっこ遊びもまだ目に見えるものを頼りに視覚に支配されて、していると考えていました。また、ごっこ遊びと独り言は全く別で発達していっていると思っていました。
 しかし、今回の授業を通して、他者に向けられたというよりは自分に向けられた独り言を使ったり、見ているものに違う意味を与えてその意味に基づいて行動することと、ごっこ遊びは関連していて、ごっこ遊びは視覚に支配されていた状況からも抜け出しているという新たな発見がありました。その事と同時に、ごっこ遊びは自然に楽しそうにしているようで深く、素晴らしい成長を表しているのだと深く感じました。

 人間とチンパンジーの共通点・相違点から人間の発達について理解を深めることができた。二歳頃の人間とチンパンジーがことばによるよりは、その場にあるモノに誘われて行動「状況拘束性」は共通するが、人間の三歳頃から始まる「ごっこ遊び」は状況や知能から抜け出せないチンパンジーとは異なる。「ごっこ遊び」は自我の芽生えとも密接に関わっていることが新たに分かった。一人でごっこ遊びをした思いがなく、覚えているのは妹や友達としているときのことであった為、自己に向けた言葉という意識がなかったからだ。このことを親に聞いてみると「一人ででも色々な人になって遊んでいたよ。」と言われ、自分の小さかった時もこうして発達していたことを知った。「自己に向けられたことば」「自我」「ごっこ遊び」の関係性の理解ができた。
 〔3歳の頃の自我の芽生えの時期は、たんに反抗の時期というのではなく、かなり大きな子どもの意識の再編が行われている、と考えるべきでしょう。自己に向けられたことばの登場、自我、想像力の萌芽、ごっこ遊びの誕生など——これらはチンパンジーにはもはや見られないものであり、すでに人間独自の意識の誕生です。ルソーは思春期を念頭において、そこに生じるものは「人間の第2の誕生」であると述べました(『エミール』1762年)。私は第2の誕生の目印となるのは自己意識の誕生であると考えますが、これに匹敵する第1の誕生は人間独自の意識の誕生、つまり、3歳頃のことであろう、と考えています。それほど大きな意識の再編が行われると思われます。〕

【発達の一番下の階層】
 新たに発見した事実は、チンパンジーは思考と言語は直接的に結びついておらず、人は思考と言語が結びついていることだ。人は、言語・イメージ・未来を見通す力を持っており、それはごっこ遊びでの、見ているものに意味を与えて、意味に基づいて行動するなどの過程を経て、思考と言語が結びついている。つまり、それまでの2歳児くらいはチンパンジーの考え方に近く、文化的発達をしていない考え方を知り、驚いた。私は今まで、チンパンジーは賢い動物であるというイメージがあったため、人間と同じようにイメージや未来を見通す力を使って、行動していると思っていた。
 チンパンジーと2歳児は、知覚に支配されていて、その時その場で見たものが彼らの行動を惹き起こす動機となる「状況拘束性」を持っているという考え方の近いことを知り、自分にとって新しさを感じた。考え方が正しいかわからないが、第3回授業のヴィゴツキーの、発達は道すじを下から上に進んでいるという考え方の途中、もしくは1番下あたりはチンパンジーも人間と同じくらいなのではないかと考えた。
 〔一番下の階層は類人猿と人間に共通する要素が目立つと言えましょう。そうした類似性のなかにも本質的な相違を無視することはできませんが。〕

【知的・合理的行動を妨げるもの】
 第四回の授業より、どの動物もそれぞれに見合った知恵があるということがわかった。まわり道でわかるように、それぞれ試行錯誤をして目標物にたどり着く。しかし、犬の場合嗅覚が優れているために目標物にたどり着くことを放棄した。嗅覚の良い犬ならいち早くまわり道に気がつき、目標物にたどり着くと思ったが、それぞれの特性が行動の妨げになる場合もあると知り、とても面白みを感じた。他の動物であれば、また違った特性で目標物を取りに行く思う。それは、おのおのの個性であり、優れている性能が異なるからこそ生まれる違いだと考えた。
 言葉は話す、書くだけでなく、表情、しぐさ、身振りも含まれさまざまな手段を用いて私達は普段相手に伝えているのだとわかった。そこから子どもの泣くという手段も言葉のうちに入り、今回学んだ「聴覚的ことば」と「視覚的ことば」のどちらもが意味をなしているのだと思った。
言語は人間が勝手にこのような解釈をしているだけで、他の動物も鳴いたり、吠えたりさまざまなコミュニケーションをとりながら生活している。
 他の動物にも言語はあり得るし、一概に人間との違いとは言い切れないと思った。
 〔犬の場合、嗅覚の鋭さが行動を妨げることもあることが分かります。その意味で興味深い事例だと思います。人間の場合も、合理的行動を妨げるものがないわけではありません。大人においては、種々のハラスメントの動因を探っていけば明らかになるでしょう。〕

【広い意味での「ことば」】
 今回の授業で、「ことば」の意味が単なる音声や、文字からの意味だけでなく、表情、しぐさ、身ぶりも時には意味するという柔軟性が新しい発見でした。
 従来では、音声、文字以外の意味は持たないと思っていました。しかし、今まで沢山の授業してきた中でたまに「ことば」と平仮名表記にしていることに疑問を持ってたので、その疑問に思っていたことが、今回繋がった気がします。ひとつの「ことば」でもたくさんの意味を持つことから、漢字では伝えられない意味を平仮名にすることによって伝えることができるのだと思います。
 また、類人猿と自然人の違いは言語、イメージ、精神的生活時間の長さを持っているか持っていないか、であることについて、私はもし類人猿に言語が備わっていれば、イメージ、精神的生活時間も持つことが出来るのではないかなと考えました。上記の3つが単体ではなく、言語があることでイメージ、精神的生活時間が備わるというように繋がっているのだと思いました。

 これまでは視覚や聴覚の障害に使われる白杖や手話といった方法が近道ではなく何故まわり道と呼ばれるかが分からなかったが、今回の授業のバナナを取るためにある金網という例で理解が出来た。さらに、チンパンジーと乳幼児につながりがあるということについて具体的に述べられておりとても分かりやすかった。チンパンジーの言葉と人間の子どもの言葉はことばの表し方という面で共通しており、人間の芸術もことばと言うことが出来るというのはとても驚いたが確かにそうだと思った。子どもはことばに出来ないときに泣いたり身ぶりや行動で意思を示すことがある。これらはまだ目に見て分かりやすいが、絵などの創作したものにことばにならないことばが含まれていることを保育者は見逃してはならないと感じた。

【ゴリラと手話】
 今回初めて、チンパンジーの知能の高さが人間の二歳児と同等であると知りました。これまでチンパンジーは周りのモノを使って曲げたり乗せるなどの工夫ができる程度だと思っていましたが、彼らのなかでの「言葉」まで存在しているのには驚きました。さらに、行動を引き起こす動機が言葉によるものというよりは、鈴が目に入れば鳴らしたくなったり階段を見ればのぼりたくなる等、場にあるモノに誘われて行動する傾向にあるという意味をもつ状況拘束性(場面的束縛性)が二歳児とチンパンジーの決定的な特徴であることも新たに知りました。
 ここで、チンパンジーはこのような状況や知能からは抜け出せないとあることから一つ疑問が生じました。昔、テレビかインターネットで手話を使って人間と会話ができるゴリラがアメリカにいたという話題を目にしたことがあるのですが、このゴリラのように手話を教えれば、チンパンジーも同様に手話を使って私たちと会話ができる可能性があるのでしょうか。
 〔アメリカではゴリラに手話を教えてゴリラを研究するという試みが盛んなようでした。その一端は、第5回講義で、アメリカのゴリラが絵を描いてそれにタイトルをつけたというエピソードを紹介しましょう。それは手話でなされています。ただし、ゴリラに文を教えようとしても成功しなかったようで、単語のみの手話による交わりであったと推測されます。〕

【観念について】
 今回の授業では子どもとチンパンジーにおいてどちらとも思考とことばを持っているがチンパンジーはその思考とことばは異なる路線に沿って相互に進むのに対して子どもはある時点まで相互に独立的に異なる路線に沿って進み、ある時点において2つの路線は交差するということが分かった。まず私はチンパンジーは人間のように言語を持っていないと思っていたが、ケーラーやヤーキーズの研究によりチンパンジーにも言葉があるということに驚いた。
 ごっこ遊びの中で子どもが見ているものに違う意味を与え、その意味に基づいて行動するというのはまさに子どもの言語が発達し、思考とことばが直接的に結びついたためだと考えた。3歳児ごろから独り言という新しいタイプのことばが生まれ、全知能的段階と全言語的段階が見られるからごっこ遊びというものができるのだと思った。
質問
 人間の洞察よりもチンパンジーの洞察は極めて限定的であり、基本的には視覚に規定された洞察であるということは、チンパンジーに思考力があっても概念というものがないということでしょうか。
 〔観念とか概念とはどのようなものかについて、まず、考えてみましょう。それは眼の前にない対象について頭のなかで思い浮かべることができる、ということから始まると考えられます。これがチンパンジーには欠けているものなのあり、したがって、観念とか概念は構築できないことになります。〕

【知能について】
 第4回の授業を通して、チンパンジーの知能実験の結果、その結果を元に人間の子どもとチンパンジーの違い、そしてその理由が分かった。チンパンジーの知能実験によると、チンパンジーは2歳の人間の子どもに近い知能はあるが、文化的発達の初歩にも達しておらず、それは言語が欠けていることや精神的生活時間の狭さであるということだった。それに反して、人間の子どもはごっこ遊びのようなものを通して状況拘束性を克服するため、チンパンジーがすることができなかった目の前に無いものを想像しながら物を作るということができるようになったのだと理解した。チンパンジーと比較することによって、人間の成長過程において重要なことがさらに理解しやすくなったように感じる。そのため、音声のある言葉ではなく、表情、しぐさ、身ぶりのような言葉が子どもの成長に重要で、聴覚的ことばだけでなく視覚的ことばの重要性も見えてくると思った。

 第4回目の授業で新しく知った点は、チンパンジーの知能と子どもの知能についてです。
 動物の中でチンパンジーが1番人間に近く知能があることは知っていましたが、それは2歳児に典型的に見られる「状況拘束性」に近く、視覚に支配された状態の中で働く知能ということを新しく知りました。
 またこの時、人間の子どもは3歳頃から、独り言などを発したり、ごっこ遊びをし始めることで、「状況拘束性」から脱出する、ということも新しい発見です。
 最後にチンパンジーと人間とを区別するのは思考と言語の結びつきとありましたが、もしチンパンジーや他の動物にも、《思考と結びついた言語》があり、《言語と結びついた思考》が出来るようであれば、みんな今の人間のように脳も発達していたのかなと思いました。

【精神的時間の長さについて】
 2歳ごろの子どもは視覚に支配された状態である状況拘束性であること、について階段をみて駆け上がろうとする、鈴があればふって鳴らそうとするという行動をどのような経緯で行うのかを知ることができた。また、その状況拘束性からの脱出の鍵となるのが「ごっこ遊び」であるということを初めて知った。昨年の保育の授業の中でも何歳ごろにこのような遊びをして…というのは一通りならったのだが、「ことば」や知能に焦点をあてて遊びについて考えたことがなかったので新しいと感じた。
 知能についてチンパンジーと人間の相違点のなかで私は未来を見通す力(精神的生活時間の長さ)というのが1番大切であると考えた。これがあるからこそ視覚だけに支配されず思考することができるのではないかと考えた。最後に記述されていた人間と他の動物を区別する明確な基準は思考と言語の結びつきであるというのと精神的時間の長さはつながっているのではないかと考えた。
 これは切り離して考えた方がいいのでしょうか??
 今回の文章をよんでたくさんの研究者がそれぞれの実験を繋げて考えていたところから、導き出す答えは違えど大きくみればそれぞれ繋がっている部分は多いのではないかと考えた。
 〔精神的時間の長さが生じるには、想像力とか概念とかが必要になるでしょう。眼の前にない耕作を頭に描いて道具を準備するためには、そうしたものが必要となるでしょう。〕


《第5回講義メモ》

〔2020/05/18〕第5回 人間的自然② 記号と統語論

はじめに

【「共通の祖先」という発想】
 前回は1910〜20年代の類人猿研究が人間の思考と言語にどのように光をあてたかについて述べた。今回は現代のチンパンジー研究の成果を扱おう。人間の思考や言語を理解するために、現代の類人猿研究はどのように貢献しているのかが、今回の課題である。その場合、類人猿と人間(動物の分類学では、ともにヒト科としてくくられている)の関係を進化の観点からどのように捉えられるのか、ということが重要になる。
    大まかに言えば、チンパンジーに見られる心の事実が人間の心にそのままの形で現れる、と考えるべきではない。それはちょうど、人間の心の事実がチンパンジーの心にそのまま現れるわけではないことと同じである。しかし、チンパンジーにあるものと人間にあるものとのあいだの類似的な共通の要素は、そのままの形ではないが、両者の「共通の祖先」に存在した、というのが進化の観点であろう。

【チンパンジーの事実と3歳未満児の事実】
 さて、前回の講義でも述べたように、チンパンジーの事実と人間の3歳未満児の事実のなかには、まったく同じとはいえないが、類似した現象が見られる。例えば、状況拘束性(場面的束縛)がそうである。チンパンジーは人間には稀にしかない視覚の特殊性のために、その行動は状況に縛られてしまう(道具を製作する、道具を使用する場合にも目標物が目に見えていることを不可欠とする)。それによく似ているのは2歳児の行動に対する状況拘束性である(前回に話した)。しかし、その状況拘束性(場面的束縛)から子どもは抜け出していく。ごっこ遊びに見られるように、架空の状況を作って遊ぶということ(3歳以上児)が、状況拘束性(場面的束縛)からの最初の解放である。それに大きく関与するのがことばである(たとえば、小石を「お菓子」とするのだから、行為を引き起こしているのは、もはや小石というモノではなく、「お菓子」という語である)。ならば、2歳児もすでにことばを話すのだから、状況拘束性(場面的束縛)のなかにある2歳児のことばはどのようなものか(これについては後日の講義で扱う)、等々。このように一歩一歩、子どもの心の事実を突きとめていくことができる。

【ヴィゴツキーの先駆性——身ぶり言語などの眼に見える言語】
 前回の講義では、ヤーキーズによる類人猿の「音声的ことば」の研究について紹介した。その研究は五線譜に記録した点などは極めて興味深いものであり、合計で303の記録が収録されている。その分類は、食物に結びついた音声、他の動物と結びついた音声(ヒトとの行動、仲間との行動)である。それらから、32の語Wordsが抽出されている。その語のリストを見る限り、食物を表す語food-word、あいさつはあるものの、大多数は自分の内的状態(痛み、怒り、喜び)を表す語であった。類人猿のことばの研究としては初めてのもので、ヴィゴツキーはそれを高く評価した。
 しかし、ヴィゴツキーはヤーキーズの研究の限界も指摘した。ケーラーにおいては、チンパンジー同士のあいさつを表す「身ぶり」が指摘されていること、また、レヴィ-ブリュールの人類学的研究のなかには、未開人の場合のことばでは、音声のことばと並んで、身ぶりのことばが本質的な役割を果たしているケースがあること、を参照しつつ、ヴィゴツキーは、チンパンジーのことばの研究においては、聴覚障害のある人間が創り出し使用しているような「視覚的ことば」をも用いるべきであろう、と言うのである。そのような研究はまだ行われていないので、チンパンジーの言語についての結論は保留したいと、ヴィゴツキーは慎重な態度をとった(ヴィゴツキー『思考と言語』第4章・第1節)。
 このようなヴィゴツキーの叙述を読むと、その後のアメリカではゴリラに手話を教えて、そのことばを研究してきたことや、わが国においてはコンピュータのタッチパネルを用いて、チンパンジーのことばの研究をしてきたこと、つまり、「視覚的なことば」を用いてきたことを、ヴィゴツキーはあたかも予見していたかのようである。アメリカのゴリラ研究者と日本のチンパンジー研究者が、ヴィゴツキーのこの部分を読んで、研究動機の1つとしたかどうかは、不明なのであるが。

【日本におけるチンパンジー研究――学問的業績と研究不正】
 日本におけるチンパンジーの心理学的研究、チンパンジー研究が人間の子どもの心理学的研究に対して示唆するものを明らかにする研究(比較認知科学あるいは比較心理学)の中心であるのは、京都大学の霊長類研究所である。この講義でも、松沢哲郎、友永雅己らの優れた研究業績を紹介し、考察している。
 ところが、残念なことに、上記2名を含む研究所のメンバーに研究費不正使用の疑いがもたれ、京都大学自身の調査委員会が報告書を出し、現在、当事者による異議申立て期間に当たっているようである。
 この事案について、日本経済新聞2020/4/17Web版は次のように報じている――「京都大霊長類研究所のチンパンジー飼育施設工事を巡る研究費不正疑惑で、京大の調査委員会が教員4人による研究費約5億1千万円の不正支出を認定する報告書をまとめたことが17日、関係者への取材で分かった」。より詳しくは、下記のURLを参照されたい。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58227610X10C20A4AC8Z00/

 いままで出版された論文や書物が歪められているわけではないので、学問的業績としては問題はなく、したがって、今までと同様に、それを参照しようと思う。しかし、京大の調査委員会の調査が確定されれば、上記2名を含む4名の研究者の人間性としては致命的であり、優れた研究を行ってきただけに、まことに残念なことである。


I 2項関係と3項関係

【トマセロのいわゆる9か月革命――子どもにおける3項関係の成立】
 アメリカの認知心理学者、霊長類学者であるマイケル・トマセロ(1950- )は、なぜ生後1年目の終わりにことばの使用が始まるのか、つまり、初語が誕生するのか、と問題を立てて、この時期の次のような子どもの発達の特徴に着目している。すなわち、9〜12か月にかけて成立してくる、①(大人と子どもとの)共同注意フレーム、②伝達意図の理解、③(役割交替をともなう)模倣という形での文化学習、である(トマセロ『ことばをつくる―言語習得の認知言語学的アプローチ』辻幸夫他訳、慶応義塾大学出版会、2008年、第2章「言語の起源」のうち、pp.21-34)。
 この考えは、チョムスキーの「生成文法理論」(個人の言語習得は、深層における生得的な普遍文法と、表層にある生成的な個別文法の2つの層からなる)に対置して提起されたものである。チョムスキーの理論の根本には言語習得には生得的なものが深くかかわっていることを強調する傾向があり、他方、トマセロの理論は、共同注意に端を発する「大人と子どもの関係」という後天的なものに重きを置いている。
 この共同注意フレームこそ、3項関係を表しており、子どもと大人がモノに対して共同で注意を払うということ、いわば、自分−大人−モノという3つの項目から成る関係が成立している、と言うのである。それに対して、チンパンジーにとっては2項関係(自分−モノの関係)が特徴的である。

【アイトラッカーの使用による証明】
 極めて興味深い実験装置(アイトラッカー)とそれにもとづくチンパンジーと人間の子どもとの比較研究がなされている。これが見事に2項関係と3項関係とは何かを示している(平田聡『仲間とかかわる心の進化』岩波科学ライブラリー、2013年に紹介)。アイトラッカーとは、動画のどこを見ているのかという視線を記録する装置である。その研究は、これを用いて、モノを扱っている大人の女性の動画を見せてチンパンジーと子どもは何を見ているかを明らかにしている。彼らに見せたのは、大人の女性がコップにジュースを注ぐ、コップを積む、という内容の動画であった。その結論を言えば、チンパンジーは動画のなかでモノ(この場合は注がれているコップ、積まれているコップ)を見ているのに対して、人間の子どもは、大人とモノの両方を見ている、ということであった。言いかえれば、チンパンジーに成立しているのは2項関係(モノ––自分)、人間の子ども(8か月と12か月の赤ちゃん)の場合には9か月頃にはじまる3項関係(モノ––大人––自分)が認められた(平田聡『仲間とかかわる心の進化』岩波科学ライブラリー、2013年、p.51の写真参照、上図はチンパンジーの場合、下図は子どもの場合)。

 人間の大人は自分にも注がれる視線に応えて、様々に教えようとする。ある意味では、子どもが持つ3項関係が教育を引き出し、そのことによって、人間は知性を発達させてきた、と推論することができるであろう。

【コインの裏側】
 以上にように、3項関係は人間の本性に根ざしており、否定しがたいものである。だが同時に考えておくべきは、3項関係というこのコインには裏側もあることである。つまり、この3項関係が裏目に出ることもある。例えば、過度に他者の「評価」を気にする傾向である。学校における「評価」は学力評価から大きくはみ出し、行動や態度まで「評価」の対象にするようになった。そういう状況のなかで、他者の眼を過度に気にかける傾向が現れてくるのは無理もない(その人の責任ではない)。さらには、業績達成の「評価」を給料に結びつけるような社会の風潮も生まれており、他者による「評価」への注目に拍車をかけている。これに関する問題や考え方については、別の機会にお話したい。


II 人間にとっての記号のもつ意味

【交わり(交通、コミュニケーション)と思考】
 ことばというものは、様々な機能を持っている。もっとも根本的な機能としては、他者に向けて伝えるという機能(外言、コミュニケーション言語などの機能)、自己に向けて語るという機能(内言、思考のための言語などの機能)である。
 他方、ことばを構造的な面から捉えると、発音、文字、文法、種々の方言(地域的、社会階級的、年齢的などの)などの「形の変化」を表すものとしての《ことばの形相的側面》、比較的固定的な意味である「語義」と様々なグループ(地域的、職業的、知的などの)や個人による変動的な意味を表す「意味」とを含む《ことばの意味的側面》を区別することができる。
 この意味的側面に深く関わってくるのが、記号とか一般化である。
 まず、記号であるが、大まかに言えば、眼の前にない事物をあらわす別のモノを指している。したがって、ごっこ遊びのなかで「お菓子」を表す「小石」は(「お菓子」の)記号であると言うことができる。ところで、この「小石」は特定のあの「お菓子」を指しているというよりは「お菓子というもの」(様々な種類のお菓子)を指していると考えるべきで、この面からすると、記号は一般化という性質をもつことになる。
 言いかえると、記号は①事物の代理をする、②一般化された事物を表す、ということができ、この点では「ことば」と同じである。もっとも、「ことば」は記号よりももっと複雑で豊かな性質をもっているが、これについては後の講義で述べることにしよう。
 ところで、人間の活動のなかで、記号または一般化がなければ成り立たないものは、1つは交わり(交通、コミュニケーション)である。たとえば、Aという記号または語が、ある人にとって「カレーライス」を意味し、他の人にとっては「お寿司」を意味するとすれば、二人が会話を続ければ続けるほど相互に理解できなくなる。この場合、Aは記号とは言えず一般化の役割を果たしていないのである。言いかえれば、人々に交わり(交通、コミュニケーション)が成立するのは、その手段であることば(あるいは記号)に一般化という性質があるからであり、ことばに即して言うなら、「語義」に一般化という性質があるからである。
 また、一般化は思考の発達にとっても極めて大きな役割をはたしている。たとえば、この木はリンゴの木なのか、ミカンの木なのか、と区別し分類することから思考ははじまる。この区別や分類はすでに一般化の働きの結果である。さらに、ある現象を、それに関連するあらゆる他の現象と関連づけて捉えることや、ある現象がどのように生まれ、成長をとげ(今日に至り)、やがて消滅していくのか、というように、現象を発生的・歴史的に捉えることが思考の課題となる。これにも一般化の働きが関与している。
 こうして、ある概念はそれが発見されたり習得したりしたら終わりというのではなく、それはその概念発達の始まりなのである。ヴィゴツキーはそのことを、語義は発達する、という命題で表している。これをより具体的に言えば、ポランが述べヴィゴツキーが肯定した次のような叙述は味わい深いものであろう。――「地球の意味については、それを完全なものにするのは太陽系であり、太陽系の意味については、銀河の全体が疑いもなく私たちにそれをよりよく理解させ、銀河の意味については......。つまり、私たちは、何についても、したがっていかなる語についても、その完全な意味を決して知り尽くすことがないのである。語は新しい問題の汲み尽くせない源泉である」(ヴィゴツキー、ポラン『言葉の内と外』三学出版、2019、p.49)。地球の概念は無限に広がっていくのである。語義(この場合は地球の語義、地球とは何かという概念)は発達する、とはこのことである。

【チンパンジーの記号理解はどこまで可能か】
 わが国においてチンパンジー研究をリードし続けてきた〔彼らが育てているアイが有名〕松沢哲郎は、実際の色、色を表す図形文字〔松沢による考案〕、漢字を対応させて、チンパンジーに「ことば」を教えようとした。実際の色を示して(たとえば散歩中に見つけたタンポポ、色のついたツミキ)図形文字や漢字を選ばせることは可能である。しかし、その逆になると(図形文字や漢字を示して並べられたツミキからその図形文字・漢字が表す実際の色を選ぶ)となるとチンパンジーは「非常にとまどう」が最終的には正解に辿り着く。
 松沢は、チンパンジーの「ことば」の学習は、チンパンジーは記号を見て実際の色を選ぶ、また逆に、「とまどい」ながら実際の色を見て記号を選ぶ、ということはできても、この二つのモメントは「独立」的である、という仮説を得ている。このような意味で、チンパンジーが手にすることのできる記号は「半記号」〔これは神谷による造語〕であろう〔松沢哲郎『想像するちから』岩波書店、2011年、pp.163-165〕。

【記号の要素を理解するチンパンジー】
    チンパンジーが初歩的な記号の要素を理解する事例を簡単に紹介しておこう。松沢は、チンパンジーが識別しやすい独特な図形文字を考案し、それと漢字とを用いて、基本的色調とその記号とを教えようとした(松沢、前掲書、p.160を参照)。かなりの練習を要したようだが、色から図形文字、漢字を当てるということができた(1人のチンパンジーは、タンポポの花を見ると、黄色の図形文字や漢字の札を持ってくることさえした)。ところが、その逆となると(図形文字・漢字から実際の色を選ぶ)、途端にできなくなった。ふたたび練習の末に、図形文字・漢字から実際の色を選ぶことができた。こうして、色からその記号へ、さらに記号からその色へ、という双方向の運動が成立したわけだが、それらはどうも独立的な動きであって、結びついていないのではないか、と松沢は疑いを持っている。
 人間の子どもは、実際の色から記号へ、記号から実際の色へ、という認識の仕方は同時に実現される。この2つは同じことである。チンパンジーが困難を味わうこの点を子どもは最初から超えていくのである。
 しかし、その課題はあまりにも大きいと思われる。①チンパンジーの自然的「言語」を利用していない(しようがない)ので、人間で言えば、いきなり外国語の読み書きを教えているような困難を伴うこと、②花とバラのような階層が理解可能かどうか、③単語レベルの記号から文にどのように移行できるのか〔人間の子どもの場合には、最初の語がすでに単語でありながらも文である(一語文)、という、ある意味では「あいまい」な特徴がある〕、などである。だが、松沢がチンパンジーにおいて単語レベルで記号理解の萌芽を明らかにしたことの意義はきわめて大きい。
 この意味で、子どもは記号を理解するが、チンパンジーは《記号の要素》の理解あるいは《半記号》の理解にとどまっている。

III 統語論(統辞論、シンタックス)の形成

【言語習得とシンタックス(統語論または統辞論)】
 シンタックスとは広い意味では、文法と同じ意味に用いられることもあるが、普通は、語が文に構成されるときの規則のことである。
 日本語を例にとると、その代表的なものは、格助詞の働きである。「わたし」「あなた」「愛する」の3語は、ただ並べただけでは文にならない。わたし「は」あなた「を」愛する、という文の場合、「は」「を」という助詞(格助詞)があって文ができる。この場合、語順は大きな意味をもたない。あなた「を」わたし「は」愛する、も文として成り立つし、映画のせりふみたいだが、《あんた「を」好きなの、あたい「は」》という語順も可能である。

 それに対して英語の場合には、語順が大きな意味をもち、代名詞のみ格変化する。
〔I=私は(が)、my=私の、me=私を(に)〕、〔you、your、you〕、〔he、his、him〕というように。日本語のような助詞はない。したがって、シンタックスの上で重要なのは語順と前置詞〔go to schoolのtoなど〕である。
中国語のシンタックスの中心も語順である(日本語でいう格助詞「の」に該当する中国語の「的」はあるが。たとえば中国的。我的。)
 ロシア語はすべての名詞の語尾が格変化する〔固有名詞も、本のタイトルさえも変化する〕ので、シンタックスの上では語順は重要ではない。たとえば、コップ(стаканスタカン)〔男性名詞〕を例にとれば、単数形の格変化は、стакан(スタカン、コップは・が), стакана(スタカーナ、コップの), стакану(スタカーヌ、コップに), стакан(スタカン、コップを), стаканом(スタカーナム、コップで), стакане(スタカーニェ、いくつかの前置詞の後に続く場合、たとえば、コップのなかに), 複数形の格変化は、стаканы, стаканов, стаканам, стаканы, стаканами, стаканах。合計1つの名詞について12種類の格変化があり、しかも、男性名詞の他にも中性名詞、女性名詞の格変化がある。理屈上は、名詞の標準的な格変化は、36種類に及ぶ。この場合も、シンタックスのうえでは、語順は重きをおかれない。

【シンタックス形成の時期―おおむね2歳代】
 興味深いことであるが、言語習得の面からシンタックスを捉えてみると、おそらく、どの言語でも同じような時期にシンタックスが習得される。つまり、2歳代がその中心である。これは、「言語発達の順次性」の代表的事例でもある。


 なお、友永雅己は、1980年代のアメリカで大型類人猿に言語を教える研究が終焉を迎えた理由を、統語論(シンタックス)のレベルで言語が獲得されない、とした。つまり大型類人猿が文を獲得したという事実は見つかっていない、ということである〔松沢哲郎編『人間とは何か』岩波書店、2010年、pp.223-224〕。

  他方、シジュウカラは文法を操り文を理解することを野外実験を通して世界で初めて発見した鈴木俊貴らの研究は、類人猿とシンタックスの問題、さらには、シンタックス習得における種の規定性という問題に示唆を与えている。シジュウカラの文法操作にかんする発見については、次のホームページを参照されたい。
 http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2017/170728_1.html

 さらにまた、興味深いことであるが、人間の子どもは、シンタックスが形成される前から、文を使用している(1語文)。

※なお、シンタックス形成の本質については、後の講義でチョムスキーとトマセロについて論じるときに、考察したいと思う。

IV 子どもは類人猿の限界を軽々と超えていく

【言語における類人猿の限界】
 チンパンジーは実験的条件においては、記号の要素は理解できることを紹介してきた。しかし、その特徴は、①実際の色→色名、②色名→実際の色、のそれぞれは理解できるものの、両者はつながっていない、という点にあるようである。その意味では、人間(の子ども)に匹敵するような記号の理解にまでは進めない。半記号の理解は、そのすべてが人間によるチンパンジーの意識的教育の賜物なのであって、決して自然発生的要素のある人間の子どもの語の習得のようではない。ここに、語の意味形成をめぐるチンパンジーの限界がある。
 さらに、類人猿は以上のような不完全性はあるものの語の意味は理解できる。しかし、そこから文の構成には進めないようである。つまり、シンタックスが形成されないのである。それに対して、人間の子どもは、初語においてすでに、1語文という特殊な形ではあるものの、文の構成に着手されている。類人猿における言語は、単語主義であって文の構成に進めない、という点に、もう1つの限界がある。

【人間という種の固有性】
 人間の子どもは、すでに初語において、類人猿の持っている上記の2つの限界を軽々と超えている。初語における《意味の般化》は、語の意味がけっして大人に教えられるままのものではなく、子ども自身の探究にもとづく《多義性》(ある意味では曖昧さ)があり、それが数か月かけて《意味の分化》へと進んでいくのである。これもすべて大人の教育のみの結果ではなく、大人のことばを聞いて子どもが主体的に語の意味を明確化していると考えられる。
 また、上で指摘したように、人間の子どもは初語において文の構成さえ行っており、この点でもすでに類人猿を軽々と超えている。
 これらが示唆しているのは、言語の習得は人間という種の固有性に深く根ざしている、ということである。人類は集団的な活動の故に言語の習得なしに生存することはできなかったと考えるべきで、言語習得には生得的なものや自然的なものが関与している。
 その関与の仕方は、ごく一般的には、自然的なものと文化・歴史的なものの「せめぎ合い」と考えるのが適切であろう。すでに述べた、3項関係の成立は自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」を直接的に成り立たせるものの1つだと思われる。

おわりに 類人猿の描画について

 現代の類人猿研究のうちから、言語にかんする研究を紹介してきたが、実は、現代の研究はもっと多面的に拡がっている。人間の乳幼児にも関連の深い「描画」について、若干、触れておこう。
 
【類人猿の描画について】
 チンパンジーら類人猿の描画は実際に見たところでは子どもの「なぐり描き」の水準である。そのような絵であるにもかかわらず、手話を覚えた類人猿が語るところによれば、その絵にタイトルを付けることができる(齋藤亜矢『ヒトはなぜ絵を描くのか』岩波科学ライブラリー、2014年、pp.24〜25、とくにp.25の写真参照)。たとえば、「Bird」(チンパンジー)、「Red Berry」(チンパンジー)、「Love」(ゴリラ)である。

 人間の子どもの描画の発達と比べてみよう。①たんなる「なぐり描き」、②「なぐり描き」を終えて語(モノの名前)を発する、③まず「なぐり描き」を始め途中で語(モノの名前)を発してそのモノを描こうとする、④まず語(モノの名前)を発して描画を始める。これが、おおよそ、「なぐり描き」から「イメージを描く」ことへの発達の概要である。語が次第に主導していくことがわかる。上記のチンパンジーらの事例は、②の段階、あるいは、①から③の中間に位置する、と考えることができるであろう。なお、人間の抽象画は、④のあとに、意識的にそれをデフォルメする、というものであろう。

《今回のおすすめ本》
◯齋藤亜矢『ヒトはなぜ絵を描くのか』岩波科学ライブラリー、2014年。
◯ 平田聡『仲間とかかわる心の進化』岩波科学ライブラリー、2013年。
〇松沢哲郎『想像するちから––チンパンジーが教えてくれた人間の心』岩波書店、2011年。

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