〔2020/05/04〕第3回 人間発達論〔2〕

〔2020/05/04〕第3回 人間発達論〔2〕

《おしらせ》
◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、

https://kyouikugenron2020.blogspot.com/

に掲載します。授業の折には、このブログにタブレットやスマホでアクセスするか、それよりも望ましいことですが、事前にパソコンから印刷してください。

◯授業終了後に皆さんのコメントをメールで送付してください。
 送付先のメールアドレス、締切、送信上の留意点は以下の通りです。

bukkyo.bukkyo2017@gmail.com

 編集の都合上、水曜日の18時までに送信してください。
「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。
 また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。
 なお内容的には、①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、②それについての従来の自分の考え、③自分にとっての「新しさ」の理由、を含んでいるのが望ましいと考えられます。
 あるいは、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。

《第2回講義へのコメントより》

【外的対話と内的対話】
 私が今回、第2回目の授業で新たに発見したことは、ヴィゴツキーの見方である、心理機能のそれぞれについて、低次心理機能と高次心理機能とを区別して捉えることです。 私は今まで心理機能のそれぞれを区別することを知りませんでした。
 また、「人々が口論をしている→自分の中で対話する」 ということが高次心理機能なのだということも新たな発見です。
 ここで一つ質問があるのですが、私は昔から他人との対話を思い返すことが多くありました。この際に、他者との対話の続きを 「〜〜ならば、」と自分で考えることは、自己との対話になるのでしょうか。自分の中で思い返し、仮定するだけならば、高次心理機能とは言わないのでしょうか。
 【「他者との対話の続きを 『〜〜ならば、』と自分で考えることは、自己との対話になるのでしょうか」という質問について。もちろん、それは自己との対話、内的対話です。より正確に言えば、自己との対話の初期的な形です。ですが、『〜〜ならば、』を自己のなかで繰り返すとき、その由来は他者でありながらも自分のなかでの意見の変形があるとみるべきでしょう。そう考えると、それはもはや他者との対話というよりは自己との対話となります。】

【乳幼児期における心理システム】
 今回の授業では心理システムの発達について理解できた。その中でも幼児が状況拘束性から脱出するためには「見立て」や「ごっこ(役)」のある遊びをすることが大切だと知った。まず、状況拘束性という言葉自体初めて聞き、それは視覚が運動を引き起こすということで階段があれば登ってみたり、太鼓があれば叩いてみたりすることだと分かった。私は幼児のこのような行動はただ単に興味があってしていることだと思っていたけど、視覚と状況が一体化しているため、目に入ったものが行動に左右されているからだと分かった。これは感覚機能と運動機能がひとつに混ざり合った状態であるため状況拘束制から抜け出すには感覚を運動から切り離す準備をしなければいけない。その点で役割を果たすのがことばだと知った。思考や想像から情動にうつすという現実的思考や想像的思考を発達させることによって幼児は状況拘束制から脱出することができるのかなと考えた。だから「見立て」や「ごっこ」などのイメージできる遊びが適していると分かった。
 【上記のことは乳幼児期のある意味では自然発生的な「心理システム」に関連しています。自己意識が成立したあとでは、心理システムは内面的、意識的、内省的になるでしょう。たとえば、「なぜ自分はそのように考えたのだろう」というように自問するという具合に。そうして、自己にとっての他者、自己にとっての世界、というものが成り立ってきます。大学生に必要なのは、専門の知識・技能はもちろんですが、ある意味ではそれ以上に、「なぜ自分はそのように考えたのだろう」と自問する内省の能力や習慣ではないでしょうか。】

【自己意識と自然的なもの―文化・歴史的なもの】
 今回の授業での新しい発見は、「自己意識」についてです。幼い頃の機能「内言」が他者との関わりが意識化され、自己を意識するようになる、そして他者を理解することにもつながるというように理解しています。従来の自分の考えでは、幼い頃からの積み重ねで今の自己認識になっているというよりも、年齢を重ねていくその都度、環境や社会によって自己認識が出来てゆくもの「文化的なもの」なのではないかと思っていました。しかし、日々過ごしていく中で、意識的に自己意識を高めていくのではないので、これは一種の「自然的なもの」になるのだと思います。文化的なものと自然的なもの、異なるものの様に感じますが、根は繋がっているものだと考えます。
 【自己意識を自己と他者の関係、自己と世界の関係において捉えるとき、自己意識は文化・歴史的なものと考えがちです。しかし、その自己とは一人ひとり違いがあると捉えた場合、純粋な文化・歴史的なものとは言えず(そうでなければ、自己はいくつかの類型・タイプになってしまいます)、より正確には、自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」の結果である、と考えられるでしょう。】

【情動と脳の働きの関係について】
 ①新しく発見した事実は、情動は古い脳にその中枢をもつ(皮質下中枢)と新しい脳(大脳皮質)によってコントロールされているということです。 皮質下中枢での情動は原始的な低次の情動を味わっていることを意味し、大脳皮質での情動はそれよりも高次の情動を示している。情動は新旧の脳による二重のコントロールを受けている。
 ②今まで情動が何にどのようにコントロールされているのか知りませんでした。脳で感情が生まれるものだと単純なものだと思っていましたが、皮質下中枢と大脳皮質によってコントロールされていることを知れました。 
 ③やはり聞いたこともなかった、皮質下中枢と大脳皮質によって情動がコントロールされていることを初めて知れたからです。ヴィゴツキーの考え方で他にも興味深いものがあったのですが、②で述べたように知らなかったことなので自分の中で新しいことを知れたなと思います。
 【情動は、危険を察知したときの「恐怖」や「怒り」、それにもとづく「逃走」や「闘争」という行動の動因となるというように、生命維持に直接に関わるものから、芸術的感動のような繊細な感情まである。上記のものは、そうした情動の生理学的解明であるが、それに呼応した哲学的・心理学的説明は、情動と思考との関係のなかにある。皮質の中枢の1つである言語中枢と密接な関係にある思考は、情動を従えたり、逆に、情動に撹乱されたりする。また、情動が思考の健全な動因になることさえある。このような思考と情動との関係の多様性は、生理学的には皮質と皮質下中枢とによる情動の二重のコントロールと呼応しあっているでしょう。】

【どのように講義メモの理解をすすめるか】
 なお「今回の授業は内容が少し難しくてまとめるのが大変だと感じました。人間発達論が3つに分けられるのは読み取れましたが、インターとイントラ、13歳の危機の部分は自分でまとめられているかが不安で曖昧です。自分の力不足ですが、内容がちゃんと分かっていない部分もあって心配です。」という意見が寄せられました。
 【一つの事柄、テーマが理解できれば、まずは、それについてコメントを書いて下さい。このブログはずっと残しておきますので、理解しにくいところは何度も読んだり、他の資料を調べたりすると、理解が進むことがあります。また、どうしても分からないときには質問を寄せて下さい。】

《講義メモ》

人間発達論〔2〕

 前回の講義では、〔自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」〕、〔インターとイントラ〕、〔心理システム〕という観点から人間発達を考察した。今回はその続きである。

IV 発達と崩壊

はじめに
 ヴィゴツキーの発達理論のうちで、もっとも独創性だと思われるのは、その発達理論が諸機能の発達とその逆の諸機能の崩壊とを1つに位置づけたことである。学問分野として考えれば、(発達を扱う)発達心理学と(崩壊を扱う)精神病理学〔あるいは臨床心理学〕とを統合的に理解したことにある。

 両者がどのように統合されているのか? ヴィゴツキーの考えによれば、発達はその道すじを下から上へと進んでいくのに対して、精神病理等にもとづく崩壊はその同じ道すじを上から下へと移動していく、と。

 彼は、とくに、発達と崩壊は高次心理機能において明瞭に現れる考えて、その典型的な事例として、①少年・少女期の発達と統合失調症による崩壊、②失語症と心理機能、を取り上げている。

A 少年・少女期と統合失調症

 13歳の危機と少年・少女期〔13歳の危機と17歳の危機とのあいだの時期〕は、健常な発達の1つの特徴であり段階である。この2つはもちろんいくらかの違いがある。
 13歳の危機とは13歳頃におこるいわゆる「第2反抗期」と呼ばれることもあるように子どもが激変する時期である。喩えて言えば、「人間の第2の誕生」の産みの苦しみのようなものであろう。この危機において中心的に形成されるものは、ヴィゴツキーによれば、「分裂機能の成熟」である。典型的には私の意識のなかでの自己と他者との分裂過程であろう。分裂機能とはイメージとしては1つのものが2つになる細胞分裂を思わせ、より論理的には、区別の機能と捉えることができる。

 そうした分裂機能がある程度成熟することによって、少年・少女期が切り拓かれる。この時期はある意味では「内省」が始まる時期であり、自己意識が形成され、概念的思考が可能になる時期である。この自己意識は、(a)自己を認識(意識)することに尽きるわけではない。(a)自己の認識(意識)(b)他者の認識、私にとっての他者という理解、と同時に生じる。そして、やがて(c)私にとっての世界を認識するようになる。

 ところで、このような自己意識がなぜ重要であるのか? 周りの他者、遠くにいる他者、会ったこともない他者を深く知りたいと思ったり、さらには、世界をより深く知りたいと思ったりすることに、自己意識は不可欠である。自分にとっての〇〇という見方が重要であるのは、たとえば、恋について考えてみればよくわかる。恋する人は、自分にとって特別な人である相手について、深く知りたいと思う。世界についても同様ではないだろうか。この世界は自分にとって意味のある世界だと思えたとき、私たちは世界をより深く知ろうとする。そこでは、世界について学んだことはたんなる知識にとどまらず、その人の内的なものとなる。

 以上が少年・少女期における主要な発達——自己意識の形成と概念的思考の発達であるとすれば、自己と他者との境目が曖昧になる統合失調症は、13歳の危機そして少年・少女期に積み上げてきた発達が崩壊していくことを示している。
 この発達と崩壊を簡単にまとめておこう。
 ①外面・内面の区別はよくなされるが、自己意識の形成にとって重要なことは、その内面が2種類に分化すること、つまり、「第1の内なる声」と「第2の内なる声」とに分化すること、
 ②比喩的に言えば、第2の内なる声のイメージは、シェイクスピアが描いたハムレットの自問の台詞——「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」のTo be or not to beのnot to beにあたる。
 ③その「第2の声」は他者の声が自分のなかで変形されたものであること、
 ④「第2の声」の存在が、第1の声との「内的対話」を可能にし、しかも、その「内的対話」は他者との対話が独特な形で変形されて内部に移行したものであること、さらに、
 ⑤「内的な第2の声」は後にワロンが述べた「第2の自我」等々に近いこと、
 ⑥現実の人々の関係が私の内部に移行したものとしての「高次心理機能」という規定(ヴィゴツキー)は、他者との対話から「内的対話」を導きだしうること、
 ⑦さらに、ヴィゴツキーの言う13歳の危機における「分裂機能の成熟」(わかりやすく言えば、区別の機能の確立過程)によって、他者が自分の一部として変形され自己化していたものが、統合失調症などによって、「分裂機能」が不十分となり、概念の崩壊とあいまって、もともとの「現実の人々の関係」を担った他者が「自立化」し、幻覚化すること。

   統合失調症について。13歳の危機は、自己意識が成立しはじめる時期であり、そこでは、自己と他者は違うということ、さらに自己の意見と他者の意見は違う、世界に対する自己の見解を形成しはじめる。自己が周りと多かれ少なかれくっついていたそれ以前の状態から自己のなかに「分裂的傾向」が生じる。そこで自己がうまく形成されないとき、統合失調症的となる。ヴィゴツキーは、統合失調症の本質は形成されはじめた概念的思考の崩壊にある、と見なした。概念的思考がそれまでに支配的であった複合的思考に後戻りすることが特徴である、と考えたのである。そこから、統合失調症を持つ人の自己の独特なあり方、他者との境目の曖昧化、他者の幻覚化などが生じる、と考えられる。いわば、概念的思考を中心とした心理システムの全面にわたる崩壊が起こっているのである。

B 失語症と心理機能の減退

 失語症は脳の損傷によって言語機能が減退する疾病である。第1次世界大戦後のヨーロッパで負傷した人々の一部(銃弾や爆発による脳の損傷による)に見られたのであるが、現代では、脳内出血などの後遺症として見られるようになった。ここでは、ことばが崩れるなかで、心理機能の崩れが生じる事例を若干、あげておこう。

   失語症患者の想像力 土砂降りの様子を窓から眺めながら「今日は良い天気ですね」と言って下さいと患者に求めると、その患者は、「こんなに土砂降りなのに天気が良いはずはない」と抗議したという事例がある。ヴィゴツキーは、ことばの機能が低下すると想像力も低下する、と述べ、まるで想像力がまだ生まれる前の2歳児において典型的に見られる「状況拘束性(場面的束縛)」—いま見ている場面に束縛されていること—が生じているかのようである、と述べている。
    多言語使用者 失語症となると今使っている言語が崩壊するが、以前に使っていた他の言語が現れてくる。これも、独特の成層(層状)構造があると考えられる。
    ある失語症患者の「錯語」(家族への取材から)  リハビリテーションの過程で、「消しゴム」の絵を見て、それを「鉛筆」と呼んでしまう。本人は「鉛筆ではない」と分かっているのに。それをどのように解釈するのか? 参照:ヴィゴツキー による「花」と「バラ」の語の解釈。子どもは普通、「バラ」という語よりも「花」という語を先に覚える。もし、「バラ」を先に覚えたとしても、この語は「花」という意味で使われている。 より一般的な語から覚える。上記の失語症の人の場合、「鉛筆」が「消しゴム」をも含む一般的な語〔「文房具」の語〕を表していると考えられる。

V 発達の地層理論

 「子どものあらゆる文化的行動〔高次機能〕はその原始的形式の上に成長しているが、この成長は、しばしば闘争、古い形式の駆逐、ときにはその形式の完全な破壊、ときには様々な発生的時期の『地質学的』成層—そこでは文化的人間の行動は地表に似ている—を意味している。私たちの脳もそのような『地質学的成層』によって構成されていることを想起しておこう。そうした発達の事例はきわめて多く見出されてきた。」(ヴィゴツキー『高次心理機能の発達史』第13章、1931年——邦訳『文化的−歴史的精神発達の理論』第11章「高次の行動形式の教育」)

 上記の一文のなかに、人間発達の地層理論が凝縮して表現されている。もちろん、これは1つの比喩であるが、その見事さは、これまで述べてきた発達に対する観点をすべて含みうることであろう。
 
 ①現在の私を地表に擬えたなら、私の歴史(個人史〔生育史〕・人類史・生物進化)はいくつもの層をなしている。〔ここでは問題を簡略にするために個人史に限定して述べよう〕
 ②そうした層は基本的には、自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」によって構成されている。〔ここで言う「自然的なもの」とは生得的なものを含みつつも、それよりも広く、習得の自然発生性とか習慣とかも含まれると考えられる〕
 ③高次心理機能が発達する層になると、その形成のメカニズムとしては、現実の人間の間の関係が自分のなかで担われることが明瞭となり〔たとえば、外的対話から内的対話へ。より広く言えば、インターとイントラ〕、それが脳の階層構造に繋がっている。
 ④各層は心理システムによって構成されている。心理システムとは中心的な心理機能の影響下に他の心理諸機能がシステム化したものであり、しかも、各年齢期によってそのシステムは変化していく。たとえば、3歳未満児における「知覚」、学齢期における「思考」、少年・少女期における「概念形成」というように、各年齢期の中心的な心理機能は変わっていく。それとともに、1、3、7、13、17歳の危機において、それまで形成されてきた心理システムが破壊され、新しいシステムが構築されはじめる。
 ⑤地層には地殻変動によって断層ができるように、地層の堆積に擬えることのできる発達は、同時に、崩壊を孕んでいる。それは、個々の機能の崩壊というよりはその時期の心理システムの崩壊でもある。〔少年・少女期の自己意識の形成・概念的思考の発達、統合失調症における概念の崩壊を軸とした自他の区別の崩壊〕。高次心理機能の崩壊は、精神疾患に見られることであるが、高齢者の理解においても意味があるかも知れない。〔もの忘れ、独り言の増加、一時的な幻影、さらには認知症〕

 この他にも、人間発達を理解するために、類人猿の研究に依拠すること(動物学、比較心理学)、また、未開人の研究と比較すること(文化人類学など)も必要となる。この点でも、ヴィゴツキーは、『行動の歴史に関する研究——猿・未開人・子ども』1930年という著作があるように、先駆的であった。

VI 自然的発達と文化的発達の教育学

 A 自然的発達と文化的発達との「断絶」を補うものとしての教育
 (ヴィゴツキー『高次心理機能の発達史』第13章、1931年——邦訳『文化的−歴史的精神発達の理論』第11章「高次の行動形式の教育」から)

 子どもの発達において、「自然的なもの」と「文化・歴史的なもの」は調和するというよりは、むしろ、争いあうものであり、その意味では、「せめぎ合い」と表現するのが適当である、と考えて、前回も述べてきた。
 ①自然主義的な発達観と教育、②文化主義的な発達観と教育、そして、③両者を組み合わせたかのような輻輳的発達、というように3つに大別したが、③はやや複雑である。ある時期までは自然主義、ある時期を過ぎると文化主義、という形で論じたり〔たとえば、幼児や小学校低学年の発達と教育は自然主義的に論じ、小学校中学年以上は文化主義的に論じる、という具合に〕、同じことだが、自然主義が続いていくと文化主義に変る、という考え方もある。

 ヴィゴツキーの考え方の特徴は、自然的発達と文化的発達とはスムーズに移行していくものではなく「断絶」や「闘争」が両者の特徴なのであり、この「断絶」を越えさせるものが「教育」なのである、と彼は捉えた。たとえば、ことばや算数を例にとれば、これらの教育が自然的発達にいかに依拠しているかは語られる。しかし、その逆のこと、ことばの教育(たとえば、しっかりした大人のことばの習得)や算数(たとえば、簡単な暗算の習得)が自然的発達をいかに改造するのかは、あまり語られない。

 ことばや計算の面でのこの「断絶」がいかに大きいかを考えてみよう。

B 小学校低学年の算数の場合

 小学1年生1学期の算数教育の目標は、おおよそ、①ひと桁の数が読める、②ひと桁の数が書ける、③ひと桁の足し算ができる、④ひと桁の引き算ができる、というようなものである。この③④は思いの外、小学1年生には難しいものである。
 先生はたいてい「指を使わずに頭のなかで計算しましょう」と指示する。子どもが頼るのはまず自分の指であるからだ〔自然的算数〕。次に子どもが頼るのは時計の文字盤である。順に数字が書いてあるので、これを使えば、容易に計算ができる。これもダメとなれば、暗算をせざるを得ない。ひと桁の足し算・引き算を暗算で行うことは大人には難しいことではない。しかし、子どもにとって眼に見えるものを手がかりにできないことは、どれほど難しいことか。
 ついでに言うと、「指折りして数えること」と「アラビア数字」との中間にあるのは「ローマ数字」である。ローマ数字はおおむね指と手とに対応しており、1つの数字(たとえばVIII)のなかに5と3がそのまま含まれているので、計算しやすいのである。しかし、大きな数を表現するのはとても不便である。

C 幼児のことばの場合

 母語の文法のおおむねの習得(2歳代)、話しことばの体系の一応の獲得(3歳代)を経て、4、5歳児ともなると、独特な「造語」が聞かれるようになる。たとえば、「あおばい」(白いバイクが「しろばい」だから、青いバイクは「あおばい」)、「ピンクい花」(「赤い花」「白い花」というように色名+い+花を応用すると「ピンクい花」)という「造語」がある。

 ある園の保育実践のなかで耳にした造語に「よけとび」があった(「よけとび」とはツバメが林のなかの木を巧みに避けながら飛ぶさまを示している)。この場合、保育者はその造語を受け入れ、それを積極的に使用した。もちろん、子どもたちもそうであり、そのことで話し合いや身ぶりでのツバメの表現は面白く展開された。

 ここに、ヴィゴツキーが特徴づけた保育の基本的性格がよく現れている。それは、「自然発生的―反応的」教育や学習というものであり、わたしなりの表現で言えば、「保育は保育者が子どもを導くものだが、子どもに導かれることがなければ、導いたことにならない」というものであろう。そこにこの時期の自然的発達と文化的発達との「断絶」に対する対応が示されているように思われる。〔保育の詳細は別な機会にお話したい〕。



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