〔2020/4/20〕第1回 教育原論オリエンテーション

「教育原論」受講生の皆さんへ―Web学習について

◯ここに掲載された資料(講義メモ)をよく読むこと。(月曜日5時限目に読んで下さい。なお、同じものを下記「お知らせ」中に掲載のURLにも載せています。それについてはブックマークを付けておいてください。)
◯その内容について、質問またはコメントをメールにて送付すること。(具体的には、下記の「お知らせ」に書いてあるので、それに則ってください。)

〔2020/04/20〕第1回 教育原論オリエンテーション

《お知らせ》

◯この授業の講義メモ、皆さんの事後のコメントのいくつかは、

https://kyouikugenron2020.blogspot.com/

に掲載します。授業の折には、このブログにタブレットやスマホでアクセスするか、それよりも望ましいことですが、事前にパソコンから印刷してください。

◯授業終了後に皆さんのコメントをメールで送付してください。
 送付先のメールアドレス、締切、送信上の留意点は以下の通りです。

bukkyo.bukkyo2017@gmail.com

 編集の都合上、水曜日の18時までに送信してください。
「件名」には必ず、学番―授業の日付―氏名 を明記してください。
 また、コメントは添付ファイルではなく、メール本文に書いてください。
 なお内容的には、①新たに発見した事実〔一つで結構です〕とその考え方、②それについての従来の自分の考え、③自分にとっての「新しさ」の理由、を含んでいるのが望ましいと考えられます。
 あるいは、講義メモを読んで、質問したいことを書いてください。

◯毎回のテーマ
〔2020/04/20〕第1回 オリエンテーション
〔2020/04/27〕第2回 人間発達論①
〔2020/05/04〕第3回 人間発達論②
〔2020/05/11〕第4回 人間的自然① 類人猿と人間
〔2020/05/18〕第5回 人間的自然② 記号と統語論
〔2020/05/25〕第6回 人間的自然③ 3項関係
〔2020/06/01〕第7回 人間的自然④ 人間における「自然的なもの」とはなにか。自然発生性と習慣
〔2020/06/08〕第8回 人間と言語① 初期の言語
〔2020/06/15〕第9回 人間と言語② 3歳児と独り言、内言
〔2020/06/22〕第10回 人間と言語③ 独特な造語とその意味
〔2020/06/29〕第11回 人間と言語④ チョムスキーとトマセロ
〔2020/07/06〕第12回 人間と言語⑤ 自閉スペクトラム症とことば
〔2020/07/13〕第13回 人間と言語⑥ 語の意味論ー語義と意味
〔2020/07/20〕第14回 講義のまとめ

《講義メモ》
 社会福祉学を学ぼうとする人のための教育原論とは

I 社会福祉学と教育学のそれぞれの学問的母胎と実践的性格

 社会福祉学は社会学から枝分かれした。いわば応用社会学の1分野であった。他方、教育学は哲学から生まれた。これも、応用哲学(こういう言い方があるかどうか知らないが)なのである。

 ところで、社会福祉学も教育学も実践的な学問である。社会学や哲学から枝分かれしたのは、実践の必要からであろう。ところが、実践はたえず新しい問題を学問に提起する。それに応えるべく、学問は隣接する諸学問から学問的成果を吸収していく。こうして社会福祉学も教育学も、社会学や哲学だけではなく、問題・領域に応じて、諸学問を引きつけていく。〔事例。学部・学科の教員の専門分野〕。

II 社会福祉学が研究する領域と教育学が研究する領域

 2つの学問が研究する領域は断然、社会福祉学の方が広い。たとえば、社会福祉実践が対象とする人間は、乳幼児から高齢者までの人間、つまり、誕生の直後〔たとえば「赤ちゃんポスト」の問題〕から死を迎えるまでの人間である。

 社会福祉学の諸領域のなかで教育学との接点が濃いのは、児童福祉論(児童領域)である。もっともストレートなつながりとしては、スクール・ソーシャルワークという活動・制度があるが、接点はそれだけではない。たとえば、児童福祉施設に入所し生活する子どもたちは、そこで生活しつつ、幼稚園や学校に通う。子どもに生存権を保障するとともに、教育を受ける権利を保障することが、保護者や国・地方自治体に求められるからである。

 それ以外の関連を含めてであるが、全体として見れば、児童福祉論は子どもの生活に深くかかわり、教育学は子どもの教育に深くかかわっている。この生活と教育の関連(つながり方)は、生活のなかで子どもが学ぶものを抜きにして教育は成り立たない(子どもが小さければ小さいほど、そのことは顕著である)、という奥深さに満ちている。

 【事例。ごく普通に行われる幼児の遊び(ごっこ遊びなどのイメージの遊び)のもつ発達的・教育的意義。ヴィゴツキーの言うところによれば、イメージの遊びは虫メガネの焦点のように、その時期の発達のあらゆる傾向を凝縮している。ことば、表現、想像力、自我、ルールへの態度、大人と子どもの関係】。

 したがって、比喩的にいえば、児童福祉論と教育学は一つのコインの裏と表のように、つながっているのである。

 それを深く理解するためには、子どもの発達を研究する必要があるが、それだけではなく、人間そのものの発達を把握しなければならない。なぜか?

III 社会福祉学・教育学に共通するものとしての人間の研究(人間理解の基礎となるものの研究)

 社会福祉実践も教育実践も、相手にしているのは人間である。そのことを深めるために、次の3つの問いを投げかけたい。

 保育士になりたいという人は、乳幼児のことだけを学習し研究していればいいのか?
 障害者の問題を考えようとする人は、障害だけを学習し研究していればいいのか?
 高齢者の問題を考えようとする人は、高齢にともなう問題だけを学習し研究していればいいのか?

 これらの問いのすべてに「いいえ」と答えなければなるまい。それは、たんに、幅広く学習し研究することが大切だ、という理由からではない。これらの問いは、様々な面でつながっている、関連しあっている、というのが「いいえ」の真の理由である。ところで、乳幼児、少年・少女、障害のある人、高齢者はどのような点でつながっているのだろうか?

 たとえば、乳幼児と中学生は、自我の問題でつながっている。3歳ころに自我が芽生える(子どもの自我が姿をあらわすが、子どもはまだ自分に自我があることを知らない、という状態)と言われるが、中学生の時期(いわゆる思春期)になると、自我を意識するようになり、自我が再編される。そうした自我の再編(自己意識の生成)を理解してこそ、幼児後期の自我の芽生えを真に理解することができる。

 〔事例。3歳児における大人への「機械的な反発」=自分に自我があることを知らないのに、生まれたばかりの自我を護っているかのようである。他方、思春期(少年期)における「人間の第2の誕生」(ルソー)=自己意識の生成:心のなかで他者の考えと闘って、自我を護っているかのようである。ときどき「オニババァ」「クソオヤジ」と爆発する〕。

 また、たとえば、発達障害のある子どもとない子どもについて、自閉スペクトラム症の子どものことばから考えさせられることがある。自閉症の当事者である東田直樹くんが中学生のときに書いた『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール出版部、2010年)には、会話をしない理由が、「僕は、今でも、人と会話ができません。声を出して本を読んだり、歌ったりはできるのですが、人と話をしようとすると言葉が消えてしまうのです」(p.2)とか「僕は、話そうとすると頭が真っ白になってしまい、言葉が出て来ない」(p.20)と述べられ、紙に書かれた文字盤(キーボード)で指を動かすことによって、かろうじて、ことばをつなぎとめている、と述べられている。

 これはこの人だけの特徴か、ある範囲の自閉スペクトラム症の人たちに共通するのか、すべての自閉スペクトラム症の人たちに共通するのか? これについては確定的なことは言えない。また、特に障害のない場合、どうして子ども・人間は自由におしゃべりできるのか?。 にもかかわらず、どうして高齢になるとことばが出にくくなるのか?こうした問いが次々に浮かび上がってくるが、いまはまだ確たることは言えない。

 だが、東田くんの言うことは、深く考えるのに値する。ついでに言えば、松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない』(福村出版、2017年)が示しているように、自閉スペクトラム症の子どもは方言で話すよりは「共通語」(いわゆる標準語)で話す傾向にある(知的障害のある子どもは方言で話す)、という事実は、何を意味しているのか? これも深く考察すべき事実である。

 さらに、たとえば、幼年期(3〜7歳)の独り言と高齢者の独り言をどのように捉えるべきか。幼年期の独り言は減少していくが、自己と対話する・聞こえない・思考(広義)のためのことばである内言へと成長するからである(聞こえないので減少と捉えられる)。高齢者に独り言が多くなるのは、かつて内言が行なっていた機能が独り言によって担われるようになった(内言が弱まるにつれて)のかも知れない。もしそうなら、同じ独り言でも、一方はことばの発達のなかにあり、他方は逆発達のなかにある。

 このような事例を通して言いたいことは、あらゆる年齢の子ども、障害のある子どもとない子ども、子どもと大人・高齢者のすべてが何らかの点でつながっており、その「つながり」を把握することができれば、どの時期の子ども・人間についても、深く理解することになるであろう〔発達と逆発達、発達の低次の層と高次の層〕。

IV 人間を理解する4つの観点

〇人間的自然とは何か

 キーポイントとなるのは《自然的なものと文化・歴史的なものとの「せめぎ合い」》という発達観であり、それは生得的なものと獲得的なものとの関係をどのように捉えるのかにつながってくる。

 大まかに人間的自然と発達の関係を捉えると、①自然的なものの成長という植物的発達観、②文化の習得という文化主義的発達観、③自然的発達が直接的に延長されて文化的発達となるという輻輳(ふくそう)的発達観となる。

 しかし、これら3つの発達観はやはり一面的であり、ヴィゴツキーによれば、自然的発達から文化的発達への移行は直線的ではなく、そこには「跳躍」がある。たとえば、聴覚障害のための「手話」「読唇術」、視覚障害のための「白杖」「点字」というような発達のための「回り道」に匹敵するものが健常な発達過程にもある。

 人間的自然、人間における自然的なものをより具体的に捉えるには、人間の生物学的概念(類人猿らとの比較を土台にした)、人間発達の自然発生的側面(自分の力で発達するという側面、乳幼児期に特に明瞭となる)、習慣、の3つを考察することが重要となるであろう。

〇人間の言語とは何か

 群れをなして生活している動物はそれぞれが言語(広義の)を持っている。そこで類人猿と人間とを較べてみると、類人猿はある程度の単語は習得されるものの文の習得という事例は明らかになっていない(他方、小鳥のシジュウカラは文法を操ることが明らかになっている)。人間の言語習得の特徴は、単語のみならず文をも容易に習得することであり、さらには、類人猿にはおそらく欠落している「独り言」や「内言〔自分に向けたことば〕」を話すことであろう。

 また、類人猿の言語の心理的機能は、自己の情動を表出すること、餌や敵などの生存に直接関わることを知らせること、社会的位置関係を表すこと、などが見られる。しかし、人間のように、言語と思考が不可分に結びつくようなことはない。

 以上が、言語習得、言語の心理機能についての人間の特質なのである。

 このような観点をベースにしつつ、乳幼児期のことばの習得と使用(ことばの本質が見えやすい)、ことばの機能(コミュニケーションのための言語と思考のための言語)、ことばの構造(形相的側面と意味的側面との関係)、外言と内言の関係、さらに対話について考えていく。

〇自我の形成とは何か

 類人猿にも「自我」らしきものがある。類人猿の描いた絵には各動物の「画風」(個性)があらわれているし、なかには、描いた後に絵にタイトルをつける類人猿もいる。ここでも、類人猿の「自我」と比較して人間の子どもの自我を考察する必要がある。

 自我について具体的に考察するためには、①発達における激動を特徴とする危機的年齢期(1歳、3歳、7歳、13歳、17歳)の特徴づけ、そのうちで、②3歳における自我の芽生え、③13歳頃における自我の内面化(自己意識の生成)、を認識することが重要であろう。

 前者の②「自我の芽生え」については、自我とことば、表現、想像、遊び、ルールの諸関係、自我の芽生えがもたらす大人と子どもの関係の変化を捉えておくことが求められる。

 また、後者の③「自我の内面化」〔自己意識の生成〕については、「第2の内なる声」(バフチン)、「第2の自我」(ワロン)の誕生と活動、外的対話から派生する「内的対話」(ヴィゴツキー)を捉えることが肝心であろう。  

〇社会的実践と個人

 生物多様性の実現と人間社会における個人の多様性の実現(個人の尊厳)とは、いまや現代の大原則となった。そこから現実的に人間・個人をどう捉えたらよいか、ということが出てくる。個人を徹底的に捉えようとするとき、それは個人の物語と呼ぶのがふさわしいものになる。しかし、その物語を記述し理解するためには種々の概念が必要である。たとえば、3歳児のA子さんをとらえるためには3歳とはどのような時期なのかという3歳の概念が必要である。もちろん、3歳の概念が理解できれば、すべての3歳児が理解できるとは言えない(やはり物語なのであるから)。こうして、《物語と概念》は統一的に捉えられるべきものであろう。

 個人の多様性の尊重、個人の尊厳に沿った人間関係は、対話においてもっとも典型的に現れてくる。対話の最も大きな特徴は、対話者たちが予期していなかった新しい考え・ことば・意味が生み出されることにある。そのときに、その対話者たちは本当に対等で平等であったということになる。そのような対話が個人の尊厳とそれを根本的に支える立憲主義(憲法をもとにした法治主義。人の支配ではなく、法の支配。)を真に具体化するものとなるであろう。

 対話はたんに考え方とか理念にとどまらず、「哲学的対話」「教育における対話」「精神療法としての対話(オープンダイアローグ)」「地域づくりと対話」など、社会的実践の様々な分野において、具体化されつつある。それらによって、比喩的に表現すれば「顔の見える社会」が築かれることになろう。

《今回のお薦め本》

東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』エスコアール出版部、2010年
松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない』福村出版、2017年

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